学会活動

ランニング・カフェ

第25話 「駅伝誕生100年」①

有吉正博(ランニング学会元会長)

本年(2017年)4月29日、京都三条大橋東詰にて、「駅伝発祥100年記念碑建立除幕式」(京都陸上競技協会主催)が行われた。1917年(大正6年)4月27日―29日、京都三条大橋から東京上野不忍池まで、日本で最初の駅伝競走、「遷都記念・東海道駅伝徒歩競走」が開催(読売新聞社主催)されてから丁度100年を記念し、記念碑が建立(写真)された。同スタート地点(三条大橋)とフィニッシュ地点(不忍池)には、2002年に駅伝の碑(写真)が建てられており、その脇に100年記念碑が加わったことになる。

【名称決定】

そもそも、駅伝の発案は1917年3月15日から上野不忍池畔で開催される遷都五十年奉祝博覧会を盛り上げる一大イベントとして、読売新聞社会部長土岐善麿(当時31歳:後の歌人)を中心に企画された。2月2日読売新聞には「奠都記念マラソン・リレーの快挙」大見出しの社告が掲載され、「東海道五十三次の徒歩大競走、京都より東京まで、四百八十五基米突の長距離、選手の発足は四月下旬」との記事があり、当初は「マラソン・リレー」と発表していたが、3月1日同新聞に名称特定との見出しで、「驛傳(駅伝)」の名称とともに、競走経路、選手の募集、規則、大会役員名等の概要が掲載された。

名称決定の経緯については、土岐善麿氏が大会顧問である武田千代三郎(50歳:皇學館館長、日本体育協会副会長)氏に相談したところ、三代実録の中に「驛傳貢進」としるされ、また楽部式に「諸国驛傳馬」ともあることから、「駅伝競走」が提案され決定したとある。(黒田圭介著「箱根駅伝抄本」序文、土岐善麿1958年)

【23区間、507km】

京都三条大橋を起点に、草津、水口、北土山、亀山、四日市、長島、名古屋、知立、藤川、豊橋、新居、見附、掛川、藤枝、静岡、興津、吉原、三島、箱根、国府津、大船、川崎、上野の23区間(13-28km)、507kmで挙行された。当初は3チームを予定し、東京附近は明石和衛、金栗四三、坂本信一の3氏、京都附近は日比野寛、多久儀四郎の2氏、大阪附近を木下東作、高瀬肇、春日弘の3氏が選手編成に当たったが、結果的に東西2チーム編成となった。4月27日午後2時、木下東作(大阪医科大学)博士の号砲にて、東軍(紫タスキ)飯塚博(一高、22歳)、西軍(赤タスキ)多久儀四郎(愛知一中教員、26歳)両選手が第1区をスタートした。昼夜兼行のノンストップリレーであったが、途中名古屋での3時間の時間調整、揖斐川、木曽川、今切、天龍川の4箇所の渡し場などを経て、29日上野の博覧会場に東軍アンカー金栗四三氏(高師、27歳)が午前11時34分(41時間44分)、西軍アンカー日比野寛氏(愛知一中校長、52歳)が午後0時58分(43時間18分)に到着した。総距離は3月1日の新聞では507kmとあるが、4月28日、29日、30日、5月2日のレース結果報道から514kmと考えられた(油野氏)。

夜間照明も不十分な当時の道路事情、車の手配や宿の手配、通信手段など数々の困難を乗り越えて、この一大イベントをとにもかくにも成し遂げられた安堵感を、土岐善麿氏が随筆「駅伝競走の追憶」の中で、以下のように記されている。

「…京都へは大村君(読売新聞学芸部長)が行き、東京には僕が残った。電話にかじりついて、この出発の情景を聞いたとき、僕の眼から流れた涙は今でも忘れがたい。

彼等は走る。彼等は走る。日が落ち、夜が更け、朝が来る。彼等は走る。彼等は走っている…。今ならばこれもほとんど何でもない事業なのだ。費用の点において、設備の点において、人員の点において、通信機関の点において、当時の読売新聞社の事業として、僕等の困苦と苦悩は、外部の想像のおよばないものがあった。…」(長谷川孝道「走れ二十五万キロ、マラソンの父金栗四三伝」より)

【表彰式】

23区間、沿道や中継所の歓迎ぶりはたいへんな盛り上がりで、特に最終区に入って品川から上野までの東京市民の熱狂、沿道の人垣が迫り出して電車(路面)も思うように走れないほどであったと記されている。そうした大観衆の中、まず東軍アンカー金栗四三氏が決勝点に入り、外相夫人本野ひさ子氏より大花輪が贈られた。

そして、午後2時から賞品授与式が行われ、土岐善麿社会部長の開会の辞の後、博覧会会長より賞品、参加章の授与、主催者の挨拶、嘉納治五郎高等師範学校長(57歳:日本体育協会会長)、本野外務大臣、岡田文部大臣、山川帝国大学総長らの祝辞、選手を代表して日比野選手が答辞など盛大に厳かに執り行われた。(4月30日読売新聞)

注:「東海道駅伝徒歩競走」に関わる1917年(大正6年)の読売新聞(2月2日、8日、9日、13日、17日、3月1日、2日、12日、4月28日、29日、30日、7月5日)の紙面コピーはすべて油野利博先生(鳥取大学名誉教授、鳥取県体育協会会長)のご厚意で頂戴したものであり、記して感謝申し上げます。