• 学会活動

ランニング・カフェ

第11話 高所トレーニングの現在

山地啓司(初代ランニング学会会長)

低地民族にとって高所トレーニングの最大の弱点は、低所(sea level)で開催されるレースに必要な高強度のスピードのトレーニングが不足することである。例えば、インターバルトレーニングを行う場合、低所と同じきつさの感覚(RPE)の強度(スピード)で練習すると、その回復に2〜3倍の時間がかかる。そのため、短期間(約1週間)の高所トレーニングでは高強度のスピードトレーニングを避けざるを得ない。

その弱点を補う高所トレーニング法が1991年にアメリカのレビンとストレイ‐グンダーセンによって提案された。それを証明する彼らの研究(1997)は、高所(2,500m)で寝起きをし(LH = Living High)、実際のトレーニングを約1,300mの低所(TL = Training Low)まで下山して実践的な高スピードのトレーニングを行うと、5,000mの記録がより向上すると言うものである。この方式がより広く普及したのは常圧低酸素室の開発である。このLH-TL型のトレーニングを採用することによって、高所へわざわざ出向かなくても、また都市でも高所トレーニングが可能になったことから高地に恵まれない国々や地域で一気に大きな広がりを見せた。今日では自宅に低酸素室を設け、日常的にLH-TL型の高所トレーニングを行っているスポーツ選手が出るまでになった。

従来の高所滞在型(LH-TH = Living High Training High)とLH-TL型(Living High Training Low)のどちらが記録向上により効果があるかについては多くの研究が報告されている。近年のレビュー(Saunders et al、2009)では3週間のLH-THとLH-TLのパフォーマンスの伸びはそれぞれ2.5% と1.8%となっている(ただし、両者間に有意差はない)。その他の高所トレーニングの方法に低地で生活し低酸素環境内でトレーニングするLL-TH型や、また、例えば、土・日ごとに高所に行きトレーニングする断続的高所トレーニング型等があるが、他の高所トレーニングとの影響の違いを評価することはデータに限りがあるため困難である。

高所トレーニングは高所と言う場でトレーニングする方法であることから、場の標高とそこでどんなトレーニング内容を行うかが重要である。学術的には高所(低酸素環境)に出向くと空気中の酸素が薄くなる。そのため最大酸素摂取量やその維持能力が低下する。それに対してからだは、低所並みの生理機能へ回復しようと反応・適応・順化する。この適応現象が顕著に現れるのは呼吸循環機能である。例えば、肺胞での酸素の受け渡しの能力、エリスロポエチンの刺激による血液の赤血球やヘモグロビンなどの質・量の高まり(酸素運搬能力の改善)、さらに、組織の好酸性のミオグロビン(Mb)の増加と赤血球中に産生された2,3-DPG(2,3-ジホスホグリセリン酸)の働きによる酸素の解離能の促進、それに伴う、毛細血管から組織への酸素の受け渡し能力の改善等々がある。

高所トレーニングのパフォーマンスへの効果は、低所に下ってきて1〜2週間の期間は、レースの成績を最高度に高めるが、時間とともに高所の生理的適応は徐々に消失する。高所で1週間トレーニングすれば1か月後には、ほぼ高所に出かける前の状態にもどる。しかし、高所トレーニングの体験はからだの中にしっかりと記憶される。そのため、高所に出かける度に低酸素環境への生理的・心理的適応は早まる。

トレーニングを行う標高は、血液の酸素運搬能力の改善の程度からみると2,000〜2,500mの高所(1回4〜5 週間、年間数回)が最適とする意見が多いが、2,000m以下では効果がないというわけではなく、効果の度合いの問題である。高所でのトレーニング内容は、低所と同様に、強度・時間(距離)・頻度・期間が十分考慮されなければならない。特に、初めて高所を訪れた者は、からだが高所に慣れるために1週間はほしい。高所への生体の適応速度に個人差が大きいこと、高所では眠りが浅くなること、感染症に罹り易くなること、水分を多めにとり、必要であれば余分に鉄分の摂取をすること(サプリメントの携帯が必要)、高山病に罹った時は速やかに低所(標高1,000m以下)へ移動すること(夜だからと言って眠らせると症状が悪化する)などを考え、準備を怠らないようにしなければならない。高所のトレーニングも漸進性の原則に従って行うが、そのためにもトレーニング計画は十分練られたものでなければならない。

従来の高所滞在型(LH-TH)のトレーニングは、家庭や勤務地から離れた場所で行う場合が多いので、時間的・経済的・家庭的に恵まれていなければならない。我が国では高所トレーニングを何週間か継続してできる人は、陸連や企業の援助が受けられる超エリート選手に限られる。例え高所トレーニングの必要性や効果を認識できても、誰もが実施できるとは限らない。その意味から高所トレーニングはエリートのトレーニング法である。しかし、今日多くの高校生や大学生が夏場の30℃を超える高温の低所を避けて避暑地的に高所で合宿(約1週間)を行なっている。期間が短く、高所トレーニングが持つ特別な効果は余り期待できないように思われるが、やはり高所の低酸素に対する刺激はしっかりとからだに記憶されるのである。

LH-TH型のトレーニングを行うためには、低所で専門的に5〜10年トレーニングを行い、走る基礎的体力を身に着けた者が、“百尺竿頭一歩を進める”の状況の中で行うことが望ましい。我々低所民族が、低所でレースを行う際にはO2濃度が20.93%の空気を吸いながら走ることになるが、高所民族、例えば、2,300mの住民はO2濃度が15.8%でありながら20.93%と同じ生活をしていると仮定すると、低所の競技は25.7%の高酸素を吸いながら競技していることになる。勿論、このような計算通りにはいかないが、高所民族が低所で行われるレースでいかに有利であるかが判る。

最近の高所トレーニングは、持久性のスポーツだけでなく、所要時間が約40秒以上の競技にも有効とする研究が散見されるようになった。アネロビック能力や緩衝能の改善だけでなく、活動筋の筋線維の摩擦抵抗の軽減にも効果があると思われる。北京の世界陸上でケニアの選手が400mHで金メダルを獲得したのはその証であるのか? さらに研究が必要である。

<< 第10話 ペースメーカーの存在は世界記録を出にくくしている

第12話 鉄は熱いうちに打て! >>