学会活動

ランニング・カフェ

第60話 我が国の高所トレーニングの進化の系譜

山地啓司(初代ランニング学会会長)

日本体育協会(現日本スポーツ協会)は、1964東京五輪を控え、1960年に東京オリンピック選手強化対策本部にスポーツ科学研究委員会を設置し、競技団体ごとにトレーニングドクターを配置した。同1960年ローマ五輪では陸上長距離種目に2つの世界的な話題が誕生した。その1つは、A.リディアードコーチが率いるニュージーランドチームの大活躍である。例えば、800mではP.スネルが、5000m ではM.ハルバーグがそれぞれ金メダルを獲得し、最終日のマラソンではB.マギーがマラソンに銅メダルを獲得することで花を添えた。もう1つの話題は、全く無名のエチオピアのB.アベベがマラソンに圧倒的強さで金メダルを獲得したことである。なお、P.スネルは1964東京五輪では800mと1500mの2冠を獲っている。

次期五輪開催国日本陸上界の長距離チームはトレーニングドクターによる科学的知見の支援を受けるとともに、ローマ五輪で活躍したニュージーランドに赴きニュージーランドチームと一緒にトレーニングを行うなど、研究者、指導者、選手が三位一体となって協力・努力することで、結果的にマラソンで円谷幸吉が銅メダルを獲得する快挙を成し遂げた。

東京五輪終了後、スポーツ科学研究委員会は役目を終え解散し、改めて日本体育協会にスポーツ医・科学事業が本格的にスタートした。次期五輪が五輪史上初の2300mの高所のメキシコシティーで開催されることが決まってから、世界のスポーツ医・科学に関する研究者たちは高所トレーニングに関する医・科学的研究を一斉に始めた。当時の日本陸連の科学委員長であった猪飼道夫氏は、諸外国の高所トレーニングに関する研究者たちとそれぞれ自国の研究データを持ち寄って、高所でのマラソンの安全性、生理的反応と後遺症などを含む回復能、あるいはトレーニング方法や記録への影響など多角的な視点による意見交換を行った。そして、帰国後は、それらの情報を機会あるごとに指導者や選手たちに報告・指導した。科学委員会を中心として東京五輪で経験した指導のプロセスをいかんなく発揮することで、高所民族を除く諸外国の選手が苦戦する中、君原健二は銀メダルを獲得する偉業を成し遂げた。

メキシコシティー五輪の後、高所トレーニングは世界の陸上界では下火になったが、米国のF.ショーターは高所トレーニングの有効性を執拗に追い求めた。彼は、1960年の五輪マラソンでエチオピアの無名のアベベが圧倒的強さで優勝したこと、メキシコシティー五輪でも同じエチオピアのM.ウォールデが優勝したこと、および自らの高所トレーニングの体験とこれまでの高所トレーニング関する客観的データから、高所トレーニングはシーレベル(平地)でのレースに有効であると確信していた。そこで米国の高所トレーニングのメッカであるコロラド州ボルダーに居を構え、“生活丸ごとの高所トレーニング”に取り組んだ。高所トレーニングへの実践と情熱が実を結び、ショーターは1972年のミュンヘン五輪で金メダル、1976年のモントリオール五輪で銀メダルを獲得した。当時のショーターは無類の強さを発揮し、1971~1974年の福岡国際マラソンでは断トツの強さで4連覇を果たした。日本のマラソン関係者は彼の安定した強さの“なぜか”に注目した。その結果、1つが高所トレーニング、もう1つがレース2~3日前から実施する“炭水化物負荷法”であることを突き止めた。

筆者が1987年カナダに滞在している時、松井秀治陸連科学委員長から、「帰国する時ボルダーの高所トレーニングの基地を視察するように」、と指示された。当時、コロラド大学の陸上部コーチをしていた岡本英司氏の協力を得て、トレーニングの場所は勿論長期滞在に備えた環境状態等について細かく視察し、その報告書を委員長に提出した。その後、風の便りでリクルートの小出監督が選手を連れてボルダーで合宿していることを知った。

小出監督の高所トレーニング成果が現れ、有森がアトランタ五輪(1992)とバルセロナ五輪(1996)で銀と銅メダルを、高橋がシドニー五輪(2000)の金メダルを獲得した。さらに、その勢いをかりて野口もアテネ五輪(2004)で金メダルを獲得することで日本女子マラソンの全盛期を築いた。しかし、小出魔術に陰りが見え始めた。なぜなら、勝利すればそれまでのトレーニングを是として継続したのに対して、敗者は徹底した反省に基づいた勝者に優る科学的トレーニングに駆り立てられたからである。すなわち、日本が暑さ対策の成功に酔っている頃、欧米諸国ではテクノロジーを駆使した徹底したスピード強化とモニタリングトレーニングを実施していた。その象徴的な選手がラドクリフである。 彼女はアテネ五輪前の2003年に2時間15分25秒の驚異的な世界新記録を樹立した。気が付いた時、世界はスピードの時代に突入していた。

シーレベルの住民が高所に出かけてトレーニングする際の最大の弱点は、高所でのハイスピードのトレーニング後の回復がシーレベルに比べ約3倍の日数を要することから、ハイスピードのトレーニングが難しい点にあった。 1990年に入ると、米国のLevineとStray-Gundersenはこの弱点を補うトレーニング法を提案した。彼らは、高所(>1,500m)に滞在して持久性のトレーニングを行い、低所(<1,300m)に下山してハイスピードのトレーニングを実施する優位性を5,000mのタイムトライアルで実証した。

もう1つの弱点は、高所でトレーニングするためには時間とお金がかかることである。そこで身近な場所で低酸素環境があることが必要であった。戦後、シーレベルでの低酸素環境(低圧低酸素)がパイロットの養成機関である立川航空自衛隊内に作られ、その施設を利用した低酸素環境下での運動中の生理的応答に関する研究がメキシコ五輪前になされた。五輪後には、低酸素環境に関する研究施設は大学や鉱山のトンネル内に移された。また1995年にフィンランドのRuskoによって開発された“常圧低酸素室”は、簡易テントを利用し、出入りも容易で、しかも安全で、かつランニングコストが廉価なため、世界や日本でも急速に常圧低酸素室が普及した。現代では、大学、スポーツセンター、スポーツクラブ、各種の体育館等に常圧低酸素室が設置されている。