学会活動

ランニング・カフェ

第1話 東アフリカ人の長距離・マラソンの強さの秘密を探る

山地啓司(初代ランニング学会会長)

今から約30年前の1986年には男子の800mからマラソン(3,000m障害も含む)で世界トップ20(1~20位)を占める割合はヨーロッパのランナーが48.3%に対して東アフリカ人が26.6%(ケニアに限定すると13.3%)であったが、17年後の2003年ではヨーロッパ人が占める割合は11.7%と激減し、それに対して東アフリカ人は85%(ケニア人が55.8%)と驚異的な伸びを示した。これはヨーロッパ人の競技水準(記録)が低下したのではなく、東アフリカのランナーの記録が著しく高まったことに起因する。

では、東アフリカ人の強さの秘密は何にあるのだろうか。東アフリカ人、特にケニア人の強さが顕著になり始めた1985年にスウェーデンのサルチン博士を中心とした研究グループがケニア人ランナーの強さの要因を形態、生理的機能、栄養や生活習慣等総合的に調査を行った。その時の結論は、全身のスリムなからだと長い脚、子どもの頃からの長い通学距離を走ったり歩いたりして通う生活習慣にあるとみなした。その後も多くの研究者たちが調査・研究を繰り返しそのベールが剥がされてきている。

長距離・マラソンのパフォーマンスを決定する要因は、走行時のエネルギー出力の大きさ(最大酸素摂取量(VO2max)×酸素摂取水準(% VO2max))とそのエネルギーをいかに有効に使うかのランニングの経済性(効率)にある。長距離・マラソンランナーのVO2maxはケニア人とヨーロッパ人(コーカシアン)との間に差がないかむしろケニア人が小さい。しかし、走行中の% VO2maxはケニア人が5~10%高い。それらの積であるエネルギーの出力の大きさはケニア人がコーカシアンより若干高くなる。しかし、一流ランナーでみると個人差がある。例えば、ケニア人の長距離のトップランナーのVO2max は75~83 ml・kg-1・min-1であるのに対して、ヨーロッパの選手も75~85 ml・kg-1・min-1であるが、世界記録保持者のクレイトンやミュンヘン五輪の覇者F.ショーター(2:10:30)のVO2maxは69~73ml・kg-1・min-1と小さい。しかし、マラソンレース中の% VO2maxはヨーロッパの80~85%に比べ90~92%と高い。

最近のケニアのトップランナーのVO2maxはそれほど低くない(75~80 ml・kg-1・min-1)ことが、クレイトンやショーターの記録に5~7分の差をつけた要因かもしれない。ケニアランナーの高い% VO2maxは持久性の筋線維であるタイプⅠ(赤筋)が多いこと(これについては肯定・否定の論文があるが、ケニアのランナーが少ないという論文は認められない)、それに関連する毛細血管の密度が高いこと(筋肉での酸素の受け渡しがスムーズになっている)に原因する。(私見であるが、5,000mや10,000mのペースの速さやマラソンのよりスピード化を考慮するとタイプIが占める割合だけでなく、持久性とスピードの線維であるタイプIIaが占める割合も関係すると思われるが、その点について言及した論文は見当たらない)

ケニアとヨーロッパのランナーの決定的な違いは、ランニングの経済性にある。一定スピードでの酸素摂取量(VO2submax)はケニア人がヨーロッパ人に比べ低い。すなわち、ランニングの経済性が高い。(この能力の測定は血中乳酸が高まらない乳酸性作業閾値(LT)以下のランニングスピード(vLT)で測定されるが、その測定時のランニングスピードがvLTに近いほど、ヨーロッパのランナーに比べケニア人のランニングの経済性は高い)。さらに、vLTは各選手がマラソンを走る際の上限のスピードであることから、マラソンの記録を予測する重要な指標となる。しかし、乳酸はグリコーゲンが燃焼する過程で出現することから、マラソンレース後半になるとグリコーゲンの燃焼率が低下し、それに代わって脂肪の燃焼率が高まるので、レース中の血中乳酸濃度は指標にはならない。

そのため最近では、マラソンの有力な指標として換気応答(VE/VO2)にアンバランスが生じる換気的作業閾値(VT)出現時のランニングスピード(vVT)の重要性が高まってきている。

特に一流ランナーの終盤にみられる肺換気量の高まりは呼吸筋への余分なO2の供給が必要になるが、肺へのO2の供給は本来活動筋へ供給されるO2が充当されることになることから、脚のO2供給がその分少なくなり疲労が早まる。(従って、現在呼吸筋のトレーニングの重要性が高まっている)高所民族である東アフリカ人は酸素濃度の低い環境で生活とトレーニングをすることによって無意識的に呼吸筋が強化されている。高所民族のマラソン終盤の強さは呼吸筋の強さそのものである。その意味で低所民族は呼吸筋のトレーニングを積極的に実施しなければならない。

ケニア人がランニングの経済性に特に優れているのはスリムなからだ(低いBMI)とすらっと伸びた脚と長い下腿による。この特性はトレーニングよりも先天的なものである。東アフリカのランナーのもう1つの特徴は短期間(約数年)のトレーニングによって世界のトップ選手に躍り出ることである。一般に日本や欧米のランナーが世界の一流になるためには、最低10年のトレーニングが必要である。女子のマラソンの世界記録保持者のラドクリフの数年間の生理的追跡調査が報告されているが、それによるとエネルギーの出力の大きさがピークに達するのは早く、その伸びが止まった後もランニングの経済性はなお発達し続けた。東アフリカのランナーがトレーニング開始から急激な記録の伸びを示すのは、ランニングの経済性が生得的に優れているので、他の民族のランナーに比べ短期間に個人の持つ先天的能力の上限まで高めることができるからである。

ではなぜ多くの高所民族がいながら、その中でもケニア選手が突出して世界の長距離・マラソン界に君臨しているのかという疑問が生じる。ケニアでは、国の政策として競技力向上に力を入れ、そのための体制が整備され内外から指導者を積極的に導入している。また、海外留学を推進し、積極的に海外のレースに出場を推し進めている。そして、優秀な成績を挙げ高額の賞金を手にすることが子供たちに夢を与え、子供たちもまたその夢を追ってトレーニングに励んでいる。このような好循環がより競技力のレベルを高める要因になっている。

しかし、貧しいケニアのランナーが高額のお金を手に入れると戦う意欲が薄れてくるのも事実である。そのため、選手寿命が比較的短い。東アフリカのランナーのもう1つの特徴は暑さに強いことである。ケニアは赤道に近く標高が高い環境のため高温ではあるが湿度が低く、年間を通して走るには好環境にある。冬季の日本のレースに実力以上の力が発揮できないのは寒さが災いしている。マラソンの至適な温度・湿度は5~10℃WBGTであるが、世界記録は10~15℃WBGTに出されているのは彼らが暑さに強いことを証明している。

2020年の東京五輪は東アフリカ選手の優位は変わらないが、日本の高温多湿気象条件では高速のレースは難しい。気象条件が厳しくなりペースがダウンすればするほど、日本選手のメダル獲得の期待が高まる。“神頼みならぬ気象頼み”ではあるが、備えを十分しておくことが大切であろう。