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第62話 大迫が3度目のマラソン日本記録 常識打ち破って進化続ける34歳

船原勝英

大迫傑が2025年12月7日、スペインのバレンシア・マラソンで2時間4分55秒(4位)の日本記録を樹立した。2021年に鈴木健吾が樹立した記録を4年ぶりに1秒短縮。わずか1秒ではあったが、「あの大迫が?」と驚いた。6位に入賞した東京五輪後にいったん現役を引退。その後にカムバックした34歳のベテランが、まさか日本記録更新を果すとは思いもよらなかったのだ。

初マラソンは2017年4月のボストン(3位:2時間10分28秒)。3度目のレースだった翌年10月のシカゴで2時間5分50秒(3位)の日本新をマークし、当時の日本実業団連合の支援策によって1億円の日本記録ボーナスを手にする。20年の東京で自身の記録を更新する2時間5分29秒(4位)の2度目の日本記録を樹立し、再び1億円のボーナスを獲得。翌年の東京五輪(札幌開催)では日本人トップの6位入賞を果した。その後に引退表明し、22年2月に現役復帰を宣言していた。

翌年の五輪代表選考会(MGC)では3番手でパリ五輪代表に滑り込み、本番では13位にとどまった。そのままフェードアウトするものだと思っていたら、2025年10月に中国のスポーツ用品大手「リーニン」と契約。早大時代を含めると12年以上トレーニングと生活の拠点だったナイキとの関係を終了させた。直後の東京ハーフマラソンでは1時間1分45秒で日本選手トップの6位に入って体調の良さをうかがわせていたが、3度目のマラソン日本記録樹立は想像もしていなかった。

世界陸連のサイトなどでレース内容をチェックすると、世界歴代8位の2時間2分24秒で優勝したジョン・コリル(ケニア)らが5㎞を14分37秒の比較的遅めの滑り出し。2025年のボストンを2時間4分45秒の好タイムで制したコリルは、中間点を1時間1分46秒で通過した。2位に入った東京世界陸上銀メダリスト、アマナル・ペトロス(ドイツ)の中間点が1時間2分41秒で、大迫も同タイムで通過している。これで2時間5分20秒前後のペース。

レースは後半にスピードが上がる。優勝したコリルは30~40㎞の10㎞を28分39秒でカバーし、後半ハーフを1時間00分37秒で駆け抜けた。大迫も25㎞からの5㎞を14分35秒とペースアップし、後半の方が速い「ネガティブスプリット」で追い上げた。全体として14分50秒前後の安定したラップを刻み、ラスト2.195kmも6分19秒で締めくくった。狙い通り記録更新に結び付けた大迫のペース感覚と戦術眼が光る。女子もジョイシリン・ジェプコスゲイ(ケニア)が今季世界最高の2時間14分00秒で走っており、レースコンディションは上々だった。

大迫は常に自分が強くなれる環境を求めてきた。東京・町田の中学から長野県の強豪、佐久長聖高へ国内留学し、全国高校駅伝のアンカーで優勝を経験。早大へ進んで力を伸ばし、トラックや箱根駅伝で存在感を発揮する。名門チームの主将でありながら、箱根駅伝前に単身でナイキの練習拠点のオレゴンでトレーニングした。卒業後は日清食品とナイキとの二重契約状態の中、日清のメンバーとしてニューイヤー駅伝区間賞(1区)の快走を見せた。リスクを承知で、春にはナイキとの専属契約を選択した。オレゴンでのトレーニングに加え、ケニアでの練習参加など思い切った試みで着実にレベルアップし、長距離界のエースとして長く活躍している。各年代で日本の常識をことごとく打ち破り、批判を恐れずわが道を切り開いてきた。

それでも、ケニア・エチオピア勢を中心とする世界との差は縮まるどころか開く一方。ケルビン・キプトゥム(ケニア)が23年に樹立した現在の世界記録は2時間00分35秒で、大迫とは4分以上の差がある。2025年の世界ランキングは27位で、世界歴代では117位にすぎない。“東京五輪特需”が終わり、実業団連合のボーナス作戦も原資が切れて終了した。マラソン界は再び低迷期に入った感があったので、リーニンとの契約直後の日本記録樹立はインパクトが大きかった。

長年所属したナイキは、フォアフット(前足部)走法のケニア勢にフィットする厚底シューズを開発し、長距離・マラソン界に旋風を巻き起こした。圧倒的な資金力でトレーニング全般からドリンクまで広範囲の最先端サポートを続けている。大迫も大きなバックアップを受けてきたが、環境を変えるべき時期と判断したのだろうか。その選択が、世界進出を目指す中国企業であるところが、いかにも大迫らしい。

自分の強みを生かして勝利と記録を狙う。プロランナーとしての大迫のスタンスは徹底している。1億円ボーナスを2度ゲットした走りを「ニンジンをぶら下げると走る」と揶揄する声もあったが、実力がなければ記録は狙って出せるものではない。獲得賞金は将来を担う若者の育成、アスリートの資産形成支援やマラソン大会開催へ振り向ける考えで、具体的な活動も行っている。プロランナーとしての志の高さは、これまでの日本選手とは一線を画している。

新しい契約先のリーニンは、1984年ロサンゼルス五輪の体操でメダル6個を獲得して中国の国民的ヒーローになった李寧が興したスポーツブランドだが、国内ではトップでもまだまだ新参者だ。現在は世界へ打って出るため技術力、資金力を強化しつつあり、まずはアジアの有力選手を囲い込んでいる段階。長距離シーズンへ向けて大迫ブランドの訴求力は相当に大きい。一時はナイキの独り勝ちだった箱根駅伝のシューズ戦争も戦国時代に入っているので、この正月のリーニンの浸透度がどうなるかも注目される。日刊ゲンダイが「契約金はもちろん、記録のボーナスも大きいはず」と報じているように、プロとしての大迫の戦術眼は確かだ。

2028年のロサンゼルス五輪は37歳で迎えるが、進化を続ける大迫が代表の座をつかむ可能性は十分ある。44年前のロサンゼルス大会では同じ37歳のカルロス・ロペス(ポルトガル)が暑さの中を2時間9分21秒の五輪新で制して世界を驚かせた。3度目の五輪出場が叶えば、ランナーとして集大成のレースとなるだろう。数々の壁を打ち破ってきた大迫には、自分自身で納得がゆく走りを見せてほしいと願っている。

執筆者

船原 勝英

東京教育大(現筑波大)卒後に共同通信社運動部記者に。プロ野球担当を経て陸上など五輪競技を担当。2020年に退職し、大リーグ、陸上などのコラムをメルマガで配信中。著書に「スポーツの現在と過去・未来」(創文企画)。