ランニング・カフェ
第22話 運動と寿命
山地啓司(初代ランニング学会会長)
ギリシャ時代の哲学者ヒポクラテスは「運動を行うと短命になる」と言った。この考えは19世紀の末期まで信じられてきた。ところが、この説が実態と異なると感じたイギリスの医師モルガン(Morgan, 1873)は、1829~1867年までの39年間オックスフォード大学とケンブリッジ大学のボート対抗戦に出場した294名について追跡調査を行った。その結果、元ボート選手の寿命が当時のイギリスの平均寿命(生命表)と比較して約2歳長いことを明らかにし、自分の考えが正しいことを実証した。当時イギリスでは厳しい身分制度が存在し、両大学に入学できるのは高貴なお金持ちの子弟に限られていた。にもかかわらず、それを一般の市民を含んで推定された保険用の生命表と比較したところに問題が残った。ただ、これを契機に運動と寿命との関係に多くの研究者が興味を持ち追究するようになった。
第二次世界大戦後には、大学の同窓生を対象とした比較研究が行われるようになった。その先鞭をつけたのは1954年のイギリスのロック(Rook)である。彼はケンブリッジ大学の元ボート選手と同大学の卒業生との寿命の比較を行い、両者間の寿命に差を認めなかった。それに対して、アメリカのハーバード大学やエール大学などからの報告では元運動選手は一般学生よりも約5歳長命であった。その後も多くの報告があるが、それらを概観すると元運動選手は一般学生よりも2~3年長命であると言える.それが運動による影響かはたまた先天的に体力がある者が運動部に所属していたのかについては明らかではない。
実施したスポーツの種類で比較すると、運動を止めるとその後脂肪太りする傾向のある相撲、柔道、陸上投てきなどの種目の選手よりは、持久性の中・長距離、水泳、あるいは距離スキー選手の方が長命傾向を示す。特に個人競技を行っていた元運動選手(例えば、持久性の競技種目の選手たちは)の寿命が長いことから、運動の内容の違いより競技生活を終えた後にどんな生活状態であったかによる影響が大きい。すなわち、人生の一短期間(学生時代)の激しい運動が寿命に影響を与えるよりも、むしろその後の人生の長いスパンの中でいかに活動的な生活(運動)が行われていたかが寿命を大きく左右したものとみなされている。
1984年のロス五輪で長年の研究が認められ特別表彰を受けたパフェンバーガー(Paffenbarger)のハーバード大学の卒業生10,269名を対象にした追跡調査によると、生活の中で定期的に運動していなかった者が10~15年後も引き続いて運動しない時の相対的死亡率を100%とすると、運動していた者が運動を中止した場合が110%、運動していなかった者が運動を始めた場合が85%、運動をしていた者が運動をなお続けている場合が82%と、運動の継続性の重要性と運動をしていなかった者でも運動を始めることの重要性を示唆している。
一方、イギリスのモリス(Morris)は職種の違い、すなわち、ロンドンバスの車掌は1日にバスのステップを乗降する数が運転手よりもはるかに多いことから、活動的な職種の車掌が非活動的な運転手に比べて心臓血管系の罹病率が低いことを明らかにした。その後、多くの研究者によって、例えば、郵便局の事務員と配達人(歩いて配達)やホワイトカラーとブルーカラーなど職種の違いによる1日の運動量の相違が心臓血管系の罹病率に大きく影響することを明らかにし、モリスの研究結果を追認している。
その他、レコーディングした世界的な女性歌手(22名)と男性歌手(15名)の平均寿命が67歳と65歳に対して、同じ音楽家でもオーケストラの指揮者(31名)の平均寿命は76歳と歌手に比べ約10年長命であるという興味深い報告がある。その原因は指揮者が歌手よりもからだをより動かすこととみなされている。その他、職業別の比較では宗教家や政治家は長命(72歳<)であり小説家や詩人は短命(60歳>)傾向がみられる。相撲の力士は一般に約10歳短命である。
ヒトを対象にした調査では先天的な寿命の違いが定量化できない。そこで最近では、一腹から生まれる子が多く比較的短命であるネズミを対象に運動と寿命の関係が研究されている。例えばレッズラフ(Retzlaff)は生まれた直後に同腹のラットを運動するグループと運動しないグループに二分し、同じ環境と餌を与えて飼育すると、前者が131日長命であった。ただ、ネズミを対象にした研究ではネガティブな報告も少なくない。それは、ネズミは運動を自発的に行ったのではなく、運動を強制的にさせられたものだからである。ネズミにトレッドミル上を走らせると、走りたくないものだから後方へ下がってくる。下がらないように後方の壁に針等を出して、下がらないように工夫されている。また水槽の中で泳がす場合も、壁にへばりついて泳ぐのを拒否する。このような状況では、身体的なストレスだけでなく心理的ストレスも加わり、必ずしも正当な評価はできない。従って、動物実験でも運動と寿命の関係を明らかにすることは難しい。
現在でも、高校や大学時代の短い期間の運動が寿命に影響を与えるか否かは明らかではない。しかしながら、人生を通して適度な運動を行うことが心臓血管系疾患(各種の心臓病、高血圧、脳血管疾患など)、代謝異常(糖尿病など)、筋肉痛(腰痛、肩こりなど)の予防や治療に役立つことから、運動が健康寿命を長くすることは可能と考えられている。