学会活動

ランニング・カフェ

第29話 陸上競技では、努力は素質を超えない

山地啓司(初代ランニング学会会長)

バイオ・テクノロジーの進歩によって、1978年に英国で人類史上初の体外受精による試験管ベビー(ルイーズ・ブラウン)が誕生した。それから38年経過した今日、世界では補助的生殖技術(IVF) を用いて500万人以上が誕生している。

1997年には英国でクローン技術による羊が誕生し、クローン人間の誕生や遺伝子組み替えなどが技術的に可能になった。さらに、再生医療の分野では、ヒトの皮膚の細胞から身体を構成する様々な種類の組織を創り出すiPS細胞の患者への移植を可能にする時代を迎えている。これらの科学技術の進展は不妊症や種々の障がい者の治療、食糧難に備えた対策などを目的として開発されたものであるが、筆者がSF映画や読み物で観てきた事象が次々と現実化するにつれ、近い将来優れたエリート選手は創られる時代が来るのではないかと心配する。

このような懸念が生じるのは、エリート選手を決める大きな要因が遺伝的要素であることを暗に認めているからである。国際的に活躍している選手の卓越した能力は天性(遺伝的要素)とトレーニング(努力)や環境を含めた後天的要素の両者に負うことは不動の真理である。また、遺伝的要素が個人の潜在的能力の上限を決め、それをどこまで顕在化するかは個人の努力を含む環境的要素に負う。従って、個人のパフォーマンスを決定する要素は素質に負うところが大きい。

20数年前に、スポーツ科学の分野でも遺伝子研究が若手の研究者によって行われていた。しかし、この遺伝子の研究は成果がまだ十分公表されない段階で徐々に下火になった。その原因の1つが、例えば、身長を決めるのは遺伝的要素が80%で、残り20%は食生活などの環境的要素であるが、身長を決定する遺伝子の数は29万4831個あることが明らかになった。すなわち、1つの組織の容量や機能に関与する遺伝子の数は数多くあり、どの遺伝子がよりかかわり(関わり)があるかを特定することが困難であることが判明したからである(『競争の科学』)。

かつて、2000年富山国体を前に各競技団体から選ばれた特別強化選手160名の保護者(両親)に対するアンケートでは、遺伝的な関与は明らかではないが、後天的因子では父親が競技に対する理解や関心が高く積極的にトレーニングや試合に出向き、息子や娘にトレーニングのアドバイスをする機会が多いことが判った(鶴山と山地,2000)。この事実は、例えば、競馬界では武豊ジョッキーの父邦彦氏は現役27年間に1163勝を挙げた名ジョッキーとして知られ、豊は幼い時から父の手ほどきを受けて育った。ゴルフ界では宮里藍と兄の聖志と優作には父優氏、卓球の福原愛にはコーチをしていた父武彦氏、フェンシングの太田雄貴には父義昭氏、体操の内村航平には父和久氏、レスリングの吉田沙保里には父栄勝氏、陸上ではハンマー投げの室伏広治には日本選手権に10連覇した父重信氏等々が、幼い時から競技への動機づけや具体的トレーニングに深く関与していたことと符合する。正に、“父子鷹”の関係である。だからと言って、母親たちが無関心であったわけではない。子どもや夫の相談相手となり、健康や栄養に気配りをしながら裏方に徹して支えてきたのである。

両親の支えだけでなく兄弟、姉妹、兄妹や姉弟の身近なパートナーやライバルの存在も見逃せない。陸上競技で兄弟、姉妹、兄妹や姉弟、親子の競技記録をIAAFのスケール を用いて、1~10位までランキングしたのがである。種目によって評価点が異なるため種目間の比較は難しいが、特色は長距離・マラソンが圧倒的に多く、兄弟と姉妹の半数が双子で、しかもそのすべてが長距離・マラソンである。このことを拡大解釈すると、かつて「短距離は素質、マラソンは努力」と言われたが、長距離・マラソンも短距離と同じように素質的な影響が大きいと推測される。

この原稿を書いている時、ドーハで開催されたアジア大会で走り幅跳びの橋岡優輝(日大)が日本記録にあと3cmと迫る8m22cmを跳び優勝した報道があった。彼の父親は日本選手権の棒高跳びで5連覇、母親は100H(100mH)と三段跳びで2連覇していることを合わせて考えると、陸上競技の個人種目では超エリート選手になるためには素質的に恵まれていることが必要十分条件である。

スポーツ心理学には、「エリートは非エリートが存在するが故に存在する」という格言がある。エリートを育てるためにはパートナーやライバルとしての非エリートの存在が不可欠である。非エリートにも存在価値があることを忘れてはならない。

添付資料

表.兄弟、姉妹、兄妹―姉弟、親子の競技成績(IAAFスケール)からみたランキング(1~10位)