学会活動

ランニング・カフェ

第36話 記録は劣化する

山地啓司(初代ランニング学会会長)

スポーツの成績(記録・勝敗・順位)は心・技・体によって決まると言われる。これらに関与する要素を抽出して科学的に評価することは可能であるが、総合的評価は実績から推測せざるを得ない。陸上競技の実績は定量的評価と定性的評価によって行われる。前者は記録(時間や距離)によって行われる。記録は客観的評価が可能であるが、人類の記録は時間とともに限りなく進化するので、エントロピーの法則(無生物は時間とともに劣化する)に従って劣化する。例えば、半世紀前には5,000mを14分30秒で走れば全日本ICで優勝できたが、今では優勝どころか予選通過もできない。また、かつては自己ベストが14分30秒だというとそれなりに評価されたが、今では平凡な記録とみなされる。これを記録の“減価償却”と言う。しかし、記録は時代的背景の中で作られたものであるから、額面だけでなく多角的・総合的評価がなされなければならない。これに対して後者の定性的評価である○○大会に何位であったと言うのはいつまでも不変である。

記録には3つの性質(働き)、すなわち、①序数性の性質、②価値の尺度、③価値の保存、がある。序数性とは、数値(時間)をもって速いとか遅いとか、跳んだ距離や投げた距離などで順位付けができる性質、価値の尺度とは、100mを何秒で走ったかの時間や、走り幅跳びを何メートル跳んだかと言う距離によって評価できる性質、価値の保存とは、陸上競技の記録、すなわち、何分何秒や何メートル何センチを永遠に保存する性質である。

記録の面白さは比較や保存だけではない。(人類の)世界記録や日本記録の未来への進化を予想することを可能にする。過去の記録(時間や距離)をみると、記録は指数関数的軌跡を描きながら進化している。例えば、時間的記録は双曲線を描き、距離は放物線を描きながら、徐々に定常状態に近づく。時代的にみると競技が始まった初期には記録は大幅に改善されたが、近年になるとその伸び率は著しく小さくなっている。これを“限界効用逓減の法則”と言う。例えば、100mを11秒00から0.01秒縮めるのはそれほど難しいことではないが、 10秒00から同じ0.01秒縮めるのは難しい。すなわち、元の記録が高いほど同じ絶対値の記録でも改善に難易度(価値)が生じる特性もある。

人類の記録は限りなく発展すると言う「記録の進化論」と、記録には限界があると言う「記録の限界説」の2つの見解がある。陸上競技の種目別の記録は確実に伸び率が低下してきているが、誰も人類の予想される限界に線を描く物差しを持っていない。社会もスポーツもアブノーマル(特殊能力者)によって開発され進歩してきたことを考慮すると、特殊能力者が誕生する限り記録は伸び続けると考えられる。このレベルに達すると、「記録は例証からなる哲学である」の格言が現実味を帯びてくる。なぜなら、新記録の誕生は個人の自己記録更新のように累積的根拠(必然性)による連鎖ではなく、多分に偶然性の色合いが強くなるからである。

もう1つの記録である個人記録は確実に限界がある。自己記録の特性はトレーニングを開始した初期には記録は大きく変動しながら伸び率が大きい。しかし、7~10年一生懸命トレーニングを続けていると記録は徐々に変動幅が小さくなりながら伸び率が小さくなり、やがて定常状態に達する(ドイツの解剖学者エルンス・ヘッケルの“個体発生は系統発生を繰り返す”の言葉に従う)。いつの時代も世界や日本のトップ選手たちは、“百尺竿頭一歩を進める”の“一歩”を求めて頑張ってきた。しかし、潜在能力には限りがあり、どんなに頑張っても越えられない壁にぶつかる。気象条件、ルール改正、あるいは、走路やデバイスなどに自然や人為的な改善がない限り自己記録は停滞し、やがて低下に転じる。自己の限界は誰にでも訪れる。競技に休止符を打つ(引退)判断は自分自身が行なわなければならない厳しく悲しい決断である。

その時の決断は2つの評価に負う。それは、縦の評価(自分自身の評価)と横の評価(他者との評価)である。前者は定量的評価によって容易に限界を知り、横の評価は勝敗や記録によって限界を知る。時には負けるはずのない選手に負けた心理的ショックに負うこともあるが、しかし、多くの場合、負けまいとこれまで以上に頑張りすぎて“けが”を繰り返すことが契機になる。

剣豪柳生宗矩は「われ人に勝つ道を知らず、われに勝つ道を知りたり」と人生訓を遺している。すなわち、横の評価でなく縦の評価こそが最も大切であることを、その精神は他人に勝つことでなく、自分をどこまでも極めていくことの大切さを教えてくれる。