学会活動

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第57話 陸上競技の記録の伸びは限界に近付いているか?

山地啓司(初代ランニング学会会長)

陸上競技の記録には、①順位を表す序数性、②順位は価値を有することから価値の尺度、③この価値は持続性を持つので価値の保存、の3つの使命がある。

記録を物理的に“速い”とか“遅い”や、“高い”とか“低い”などと単純に比較することは容易であるが、これを価値化して評価するのは難しい。なぜなら、記録は物理的に時代とともに新たに作り替えられ進化するので、その価値はエントロピーの法則に従って時間の経過とともに劣化するからである。従って、記録の価値は時代と共に減価償却する、と言える。例えば、100m走では1931年に吉岡隆徳が10秒3の日本記録を樹立し、1964年には飯島秀雄が10秒1を、2017年には桐生祥秀が念願の10.0秒の壁を破る9秒98の新記録を打ち立て、現在の日本記録は山懸亮太の9.95秒である。2022年末の記録を序数性からみる限り吉岡の記録は50傑にも満たないし、飯島の記録は14位と後退する。

吉岡や飯島の記録は、ともに土のグラウンドとアンツーカーで、また記録の測定はスターターのピストルの合図にストップウオッチで計測されたものだが、現在では全天候型のグラウンドで電気時計を用いて機械的に測定される。現代では、フライングで失格となる回数は3回から1回に減少し、スパイクもグラウンドの進化とともに改良されてきた。従って、厳密には山懸の記録と吉岡や飯島の記録を同じ天秤で比較することはできない。もし比較するとしたら、測定方法の違いや記録が誕生したその時代の社会的・文化的背景を定量化することで価値判断しなければならないが、時代背景の定量化は難しい。一方で、五輪等の大きな国際大会での成績はそれぞれの時代を反映した順位であるから、五輪等の大会でどんな色のメダルを獲得したか、あるいは、何位に入賞したのか、また○○大会に出場したなどの成績で評価することは、いつの時代でもある程度平等に評価できそうである。なぜなら、五輪などの大きな国際大会はそれぞれの時代を反映した順位であるからである。

陸上競技の記録の伸びを、ルール改正、科学技術の進歩に伴う走路やシューズの開発・改良などを除き選手の心技体の伸びだけに限定すると、記録の伸びの限界説は今日でも根強い。1972年マサチューセッツ工科大学の研究グループは社会の発展・成長を人口増加や食糧生産、環境汚染、気象変動などから総合的に解析・検証することで、将来100年以内にこれらの事項は限界に達し、人口、食糧生産や工業生産力等が著しく低下すると予測した。それから約50年経過した今日、この徴候が随所に見られそうである。もし予想されるネガティブな社会変化が人口を減らし、競技人口を減らすと考えると記録の進化は期待できそうもない。身近な例として、3年前からの新型コロナウィルスの蔓延によって東京五輪を始め国際大会や主要な国内大会の延期や中止、あるいは日々のトレーニングにも支障をきたす事態になっている。2023年の今日になってマスクの着用が強制から個人の判断に移行し、ようやく3年前の普段の生活に還る兆しが見え始めた。まだコロナの影響が十分検証されていないが、この間の陸上競技界の記録の停滞は免れそうもない。さらに、現在社会は鳥インフルエンザや豚コレラなどの脅威も食糧問題に影を落としている。将来新たな感染症の蔓延、地球温暖化の進行や地震などの天変地異の勃発、さらには、ロシアのウクライナ侵攻等々突発的な事件などによる社会の不安や物価の高騰等によって社会や生活環境の悪化に拍車がかかるかもしれない。

将来何が起きるか予想できない現在、記録の伸びが限界に達するとネガティブに考えるよりは、どこまで伸び続けるかとポジティブに考える方が生産的であろう。なぜなら、ヒトが日々厳しいトレーニングに打ち込めるのは選手個人の記録がどこまでも伸び続けると信じることで夢と希望が持てるからである。

これまでの記録の伸びの原動力はただ選手の心技体の向上によるものだけでなく、テクノロジーの発展やルール改正に伴うものが大きく影響していることは間違いない。例えば、棒高跳びはグラスファイバーポール、トラック種目では全天候型走路やスパイクシューズ、マラソンではシューズなどの開発・改良によって記録が飛躍的に伸びている。もしこれからこの種の競技に直接かかわる「用具や施設」に画期的な改良がないと仮定すると、競技記録の伸びは減速化するであろう。すでにその兆候が認められる。例えば、2019年12月末日の陸上競技場で行われた競技種目(21種目)の記録からみるとまだ20世紀に創られた記録が破られていない種目は、日本記録では男子が400m(1991)、三段跳び(1986)とやり投げ(1989)(注)の3種目、女子が三段跳び(1999)の1種目である。一方、世界記録は、男子が1500m(1998)、4×400mR(1993)、走高跳(1993)、走幅跳(1991)、三段跳(1995)、円盤投(1986)、ハンマー投(1986)、やり投(1996)(注)の8種目、女子が100m(1988)、200m(1988)、400m(1985)、800m(1983)、4×400mR(1988)、走高跳(1987)、走幅跳(1988)、砲丸投(1987)、円盤投(1988)、七種競技(1988)の10種目である。すなわち、世界記録の約半数の種目がこの20年間破られていない(ただし、ドーピングの影響が無いと仮定するならば…)。

記録は体力や技術が向上することで「対数関数曲線」を描きながら進化する。すなわち、記録の伸びは時代とともに鈍化する。日本の陸上界はまだ進化の途上にあるが、世界記録ではすでに進化に陰りがみられる。これからの記録はしゃくとり虫の歩行的な伸びが予想される。その時代になると記録の評価価値は一層高まるであろう。

(注)やり投げでは、「やり」が飛び過ぎるので重心の位置を前にして飛ばないように規定が変更されたが、男子の日本記録(1989)、同世界記録(1996)は、いずれも規定変更後の記録である。