学会活動

ランニング・カフェ

第56話 ラドクリフのモニタリングトレーニングにみる記録変動

山地啓司(初代ランニング学会会長)

マラソンやウルトラマラソンの記録はエネルギー出力の大きさを示す最大酸素摂取量(VO2max)と持続可能なランニングのスピードである酸素摂取水準(% VO2max)、および、これらの産生したエネルギーをいかに有効にランニングで使うかの効率(経済性:ランニングエコノミー:RE)によって決まる。この3要素でマラソンの記録は81%が、ウルトラマラソンでは87%が決まると考えられている。英国のJones(2006)は前女子マラソン世界記録保持者ラドクリフの1992年から11年間の生理機能(VO2maxとRE)を縦断的に追跡調査した結果を報告している。マラソンランナーに限らず一流アスリートの縦断的追跡調査に関する研究は極めて珍しく貴重なデータである。そこで本稿は、世界記録樹立までの生理的機能の改善が記録(1998~2003)へどのような影響を与えたかを検証してみた。

1.VO2maxの変動

個人のVO2maxの生涯での改善率は最高約20~30%である。仮に、13歳頃から専門的にトレーニングを開始すると、最初の1年間のVO2maxの伸び率は最も大きいが、潜在的能力の限界に近づくにつれて徐々に小さくなり、7~10年でほぼ個人の最高レベルに達する。伸びがほぼ限界に達した後のVO2maxは、高速のインターバルトレーニングの質と量に応じて変動する。例えば、トラックシーズンを終えマラソンのトレーニングに移行して、速さよりも持久性に重点が置かれるようになると、VO2maxは低下する。図1はラドクリフのマラソンの全盛期に達するまでの1992~2003年のVO2maxの変動を示したものであるが、その間の変動幅は約67~75ml/kg/min(12%)である。一般にVO2maxがほぼピークに達してからの変動幅は男子が約10%、女子が約13%であることから、ラドクリフの変動幅は妥当なものと言える。

また、マラソン走行中の%VO2maxは中盤から低下し、フィニッシュでは5~10%低下していることが知られている。ただし、この低下率はマラソンの記録が約2.5時間以上かかる男子選手のデータから得られたもので、例えば、ケニアのトップ選手のような世界一流選手では低下率は小さく、フィニッシュ直前でも約0~5%の範囲であると言われている。

2.最大酸素摂取量が出現した時のランニングスピード(vVO2max)

vVO2maxのランニングスピードとは1500mから3000mのレーススピードに相当する速さである。ラドクリフは、vVO2maxの持続時間の伸びに伴って5000mや10000mの記録もほぼ順調に伸び(図2表1)、2003年の2時間15分25秒の世界記録樹立の布石になっている。彼女がどんな内容のトレーニングを実施していたかは不確かであるが、 2001年頃にマラソンへの挑戦を決意してから高強度のスピードと長い距離のトレーニングも併せて実施していたことが、彼女の2002年や2004年の5000mや10000mにベスト記録に近い記録を出していることから推測される。従って、マラソンに転向した2002年後にもトラックシーズンには積極的に高速度のスピードトレーニングを実施していたものと思われる。

3.ランニングの経済性(running economy:RE)の変動

ラドクリフの11年間の時速16.0kmのランニングスピードにおける酸素消費量、すなわち、 ランニングの経済性(RE)は徐々に向上して2003年にピークに達している(図3)。しかも、VO2maxに増減があってもREはコンスタントに向上している。このことは、VO2maxがピークに到達した後にもREは継続して向上していることを示唆している。

ラドクリフはトラックの5000~10000mの走スピードとREの2つの能力が最も高まった2003年に2:15:25の驚異的な世界記録を樹立した。その翌年のアテネ五輪(2004)では5000mや10000mでベストやそれに近い記録で走っていることから、状態もベストだったと考えられるが、彼女の唯一の弱点である暑さに弱い(下馬評)ことが途中棄権という最悪の結果を招いたのかもしれない。

本稿は、英国のJones(2006)がラドクリフの協力を得てトレーニングを長期にわたってモニタリングした研究の結果から、彼女が行ってきたトレーニング内容と生理的成長や記録の変遷がどのように連動するかを検証したものである。今日世界ではモニタリングトレーニングの重要性が叫ばれ、各チームのモニタリング専任のコーチはトレーニング内容と生理的向上や変動、また、スキルの向上などと個人の記録の変動との関連性を追究している。それは個々の選手の健康や安全性を特に重要視したものである。Jones(2006)の研究報告はモニタリングトレーニングの意義と重要性を再確認する上で貴重な研究である。

表1
図1
図2
図3
(文献)Jones AM (2006) Int. J. Sports Sci. Coa. 1:101-116