学会活動

ランニング・カフェ

第54話 速く長く走るフォームの矯正法

山地啓司(初代ランニング学会会長)

小学校に入学する頃になると速く走りたいという欲求が芽生えてくる。この走る欲求は、人類が誕生してから進化の過程で脳幹脊髄系(反射)の発達から始まり、歓び悲しみの感情を支配する大脳辺縁系(情動脳)を経て、小・中型の動物を捕獲したり大型動物から逃避したりする技術をマスターすることで安全で速く長く走る知恵を獲得してきた。それと同じように、現代の競技者もまた発育・発達とともにより速く長く走る技術を学び、繰り返し学習(トレーニング)することで走る体力や技術を身に付けている。ドイツの解剖学者エルンス・ ヘッケルは「個体発生は系統発生を繰り返す」と述べているが、人類の誕生から始まった速く長く走る行為は現代人にも受け継がれている。

成長とともに競争意識が目覚めてくると先天的要素とそれまでの学習による後天的要素によって、走に関連する神経や筋肉の機能が相互に合理的に結びつき個性的な走りのフォームが形成される。さらに競技選手を目指す人は、より速く長く走れるように走る技術を矯正しなければならないかもしれない。その時には驚くほどの時間と労力と当事者の努力が必要である。なぜなら、すでに走に関与する神経と筋肉との間に密なツールが形成されているからである。ヒトが無意識化されている動きを意識化して矯正するためには、すでに構築されている神経と筋肉の機能的連携を修正しながら、その走りを無意識の水準まで高めなければならない。なぜなら、速く長く走るためには走るフォームを意識するより無意識な状態で走ると経済性(効率)が高くなるからである。

ヒトに速く長く走りたい “欲求”が芽生えてくると、速く走る人のフォームなりトレーニングの仕方に興味を抱き注目するようになる。指導者はフォームを矯正する時には、自らの経験や指導理論からその選手の潜在的能力が顕在化した時の理想のフォームを頭に描き、最も望ましい矯正ツールを選択する。続いて、矯正すべき身体の部位の神経や筋肉を強化したり、あるいは走るのに直接関係のない筋肉は脱力させたりすることを求める。また指導者は、選手の長所を生かしながら短所を補強・補完しながらあらかじめイメージしたフォームに近づけるように努める。脚の活動筋は走るリズムやバランスが保たれ安定したフォームがどこまでも崩れない水準まで走り込まなければならない。選手の弱さはフォームが変わるまで追い込むことで表出する。選手は自分の限界まで追い込むトレーニングを通して、己の成長を確かなものにする。その水準に達した時トレーニングに対して新たな意欲が生まれ、挑戦が始まる。この水準に達すると選手は理知脳と情動脳と筋肉間で相互に情報を反芻し、最終的に大脳ではなく末梢の筋肉が走る動きを記憶することで自分のフォームが自分のモノになる。

鷲田清一(『悲鳴を上げる身体』(2003)PHP新書)は理想のランニングフォームを身に付けるための矯正法を次のように説明している。「ヒトが自分のランニングフォームを変えようとする時、自分の身体をコントロールしたいという自己制御の願望が生まれる。この自律への願望が自分の身体管理へと転移し、身体を意のままに動かしたい、理想のフォームに近づけたいと願う背景には、身体を自分の所有物とみなしていることがある。しかし、身体は自分自身のものではなく、意のままになるものでもない。すなわち、私と身体には本質的な“すきま”がある。つまり、遊びという間の存在である。しかし、いくら努力しても到達できないとあきらめムードになり、フォームを変えようとする意識が徐々に薄れるにつれ、ヒトの無意識的欲求である、“楽をしたい”という経済性の欲求が目覚めてくる。その無意識が極限に近づくにつれて、その条件で最も理想的なフォームが形成される。」と言う。すなわち、 走るフォームを矯正しようとする強い意識が徐々に薄れてくるまで走り込むことで、ヒトが持つ本能的な“賢さと狡さ”が無意識のレベルまで移行し、反射的に自然な“楽に長く速く走る”フォームに改善される。

学校教育の現場では、子どもは競技選手に比べ速く長く走りたいと言う意欲は、それほど強くないかもしれない。その時は児童・生徒にいかに速く走るかを教える前にいかに走ることが楽しいかを教えなければならない。まず走ることの楽しさを情動脳に植え付けることである。

走ることが楽しくなることによって、情動脳からの“楽しいという情報”が無意識のうちに自然に速く長く走る意欲を高める。指導者は選手の走るフォームを矯正しようとする時は、理知的に矯正戦略を考え、選手の情動脳に矯正の意欲が維持できるように努める。それは選手自身がその効果を認識することで新たなポジティブな意欲を生む。ヒトの走フォーム矯正に必要なことは下記の言葉である。

これを知る者は これを好む者に如かず

これを好む者は これを楽しむ者に如かず

(論語 雍也篇)