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ランニング・カフェ

第32話その1 マラソンで2時間を切る条件(上)

山地啓司(初代ランニング学会会長)

1.マラソンで2時間を切る条件

1)安全ペースより冒険心

マラソンは42.195㎞を維持可能な最高のスピードで走る競技である。最初からハイペースで走り始め、疲労に応じて徐々にペースダウンしながらフィニッシュする、いわゆるオールアウトペース型(生理的イーブンペース型)が生理的に最も合理的である。にもかかわらず最近のマラソンは中盤から終盤にかけてペースアップするタイプが多い。

Ulmer(1996)は、ランナーがスタートラインに立った時、すでにレースのペース設定がなされていると言う。この時ランナーは、ペースに対する不安が大きければ大きいほど途中で破局的なペースダウンをしないよう、より安全なペースを選択する。すなわち、“安全予知理論”を説いている。マラソンのように長丁場のレースでは最初からハイペースで走ることは距離が長いだけに冒険である。例えば、当日の自分の体調、ライバルのコンディションの状態、不慣れなコース、さらには気象の状態等の不透明さに不安がある時、ランナーが選ぶペースは安全・安心・安定に基づくものである。特に、記録よりも勝負を第1に考えると、最初から高速で走る冒険を避け、ライバルが絶えず目視できるトップ集団に付き、終盤の勝負に備えるのが常套手段である。

ただ世界新記録や日本新記録を狙ってそれを成就したラッキーなランナーがいることも事実である。例えば、女子マラソンの世界記録(2時間15分25秒)保持者のラドクリフ(英国)や、16年ぶりに日本記録(2時間6分11秒)を樹立した設楽悠太(Honda)であり、さらに更新した大迫傑(2時間5分50秒)である。しかし、世界や日本の新記録を狙ってスタートしたものの、達成できなかった不運なランナーはその何倍何十倍もいたであろう。新記録樹立は結果の産物である。ランナーが安全(物理的事象)・安心(心理的事象)を強く求める限り新記録は出にくい。やはり危険を冒して新記録を狙う冒険心が必要である。

2)ペースメーカーは無用の長物

マラソンを走るのは人間である。人間である以上は心を無視できない。ヒトは先行きが不透明な状況では冒険よりもまず安全を優先する。同じようにマラソンでも、自分の体調が走ってみないと分からない状態(不安)では、安全で安定したペースを選択する。なぜなら、生理的イーブンペースで走るのはあまりにもリスクが大き過ぎる。さらに、最近このランナーの弱気を助長しているのがペースメーカーである。優勝を狙うランナーにとってペースメーカーは安定したペースを保障する。トップ集団が例えぬるま湯的なペースであっても「住めば都」である(不認知の満足現象)。集団を離れてペースを上げる行動はよほどの不満がないと起こせない(不満生産性の法則)。仮に、マラソンで2時間を切るためには100mを約17.1秒、1㎞を約2分50秒のペースを維持して走らなければならない。世界のペースメーカーでこのハイペースで30㎞(1時間25分)を走り切れる選手はいない(世界記録は1時間26分47秒)。従って、世界新記録や2時間の壁を破ろうと試みる時、ペースメーカーは無用の長物である。ペースメーカーが存在する限り、大都市型のレースでは当分の間2時間切りは望めない。なぜなら、2時間を切るために必要なことは安全・安心より冒険心であるからである。

3)“いつ、どこで、誰が”2時間の壁を破るか

陸上競技マガジンで毎年発表されるその年のトップテンは、2010年から今日まで男子で100%、女子では70~100%がケニアとエチオピアのランナーで占められている。さらに、男子では2003年のテルガト以降、世界記録はケニアとエチオピアの計6選手が更新している。しかし女子では、ラドクリフが2003年に自身が樹立した世界記録(2時間15分25秒)を保持している。ただし、女子単独のレースでは昨年ケイタニー(ケニア)が2時間17分01秒を記録し、2005年のラドクリフの記録(2時間17分42秒)を破っている。このことを考えると、男・女ともケニアかエチオピアの選手によって世界記録が塗り変えられる可能性が高い。

世界新記録が樹立された大会は男子では2003年のテルガト(ケニア)から現世界記録保持者のキプチョゲ(ケニア)まで全員がベルリン・マラソンである。女子では今世紀に世界記録を樹立した4名は、シカゴ2名、ベルリン1名、ロンドン1名と分散している。わが国の日本記録樹立者3名(高橋尚子・渋井陽子・野口みずき)は全員がベルリン・マラソンである。ベルリンが比較的記録の出やすい印象を受けるが、この原因がコース特性や気象条件なのか、それとも記録が出やすい大会と認識し記録や実績狙いでライバルたちが集結するのかは判らない。

世界のトップランナーがどの大会に出場するかを決める要素は何であろうか。大会主催者側はより実績がありネームバリューのある選手をあの手この手で招聘しようとする。その時選手に数百万円から1千万円を超えるアピアランスマネー(出場料)が提示される。中にはラドクリフのように、ロンドン大会と複数年契約し、同時期にロンドン以外の大会に出場しない保証が取り付けられていた例もある。もう1つの選択肢は 報奨金の多寡である。大都市型のマラソンレースでは報奨金は大会によって異なる。テルガトはベルリン・マラソンに世界新記録(2時間04分55秒)で優勝した際、優勝賞金約420万円、世界新記録ボーナス1,680万円、計約2,100万円を獲得している。ロンドン大会でラドクリフが世界記録で優勝した際は、優勝賞金約660万円、世界新記録ボーナス約1,500万円、コース新記録約300万円、2時間20分以内、約600万円、合計3,060万円獲得している。ベルリンでは世界新記録賞が優勝賞金の約4倍に対して、ロンドンでは2倍である。新記録を狙うランナーがベルリンに多く集っても不思議ではない。我こそはと世界中のランナーが、こぞってベルリンに集結し世界新記録に挑戦するかもしれない。

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