学会活動

ランニング・カフェ

第32話その2 マラソンで2時間を切る条件(下)

山地啓司(初代ランニング学会会長)

2.2時間を切るために残された課題

1)マラソンの記録を決定する条件

マラソンレースの個人の走行スピード(Y)はエネルギーの出力の大きさ(最大酸素摂取量:VO2max×酸素摂取水準:% VO2max)(X)と、このエネルギーでいかに無駄なく維持可能な最高のスピードで走るかの能力であるランニングの経済性(RE)(a)、および、精神力(b)によって決まる。この3要素を式で表すと
 Y=aX±b・・・(1)
となる。
さらに、この3要素の総合力を示すのは乳酸性閾値でのスピード(vLT)(有酸素的ランニングであり続けるための最高ランニングスピード)である。従って、3要素あるいはvLTを高めることが記録更新につながる。

世界のマラソントップ選手のエネルギー出力の大きさには3つのタイプがある。1つがVO2max が大きく% VO2maxが小さいタイプ(アジア系の選手に多い)、2つ目がVO2max が小さく%VO2maxが大きいタイプである(東アフリカ系の選手に多い。欧米選手ではF.ショーター(米国)やD.クレイトン(豪州)がこの型).もし、VO2maxが大きく%VO2maxも大きい第3のタイプ(東アフリカ系の選手に多い)のランナーが誕生すると、マラソンの記録は大幅に向上する。Joyner(1991)は、VO2maxが84 ml•kg-1•min-1と% VO2maxが85%で走る選手が出現したと仮定すると、走行中のVO2は71.4 ml•kg-1•min-1 となる。さらに、Coyle and Krahenbuhl(1980)が作成したマラソンのランニングのスピード(RS: km•h-1)の推定式(最も高いランニングの経済性の直線)にこの値を代入すると、
RS(km•h-1)=71.4(ml•kg-1•min-1)×0.2936+2.6481・・・(2)
となり、RSは23.6 km•h-1となる。さらに、無風状態での空気抵抗等による減速率を10%と仮定して21.52km•h-1のスピードでマラソンを走ることが可能ならば、マラソンを1時間57分40秒で走り切ることができると推定した。この推定値は、2018年夏現在の世界記録(2時間02分57秒)に比べ約5分速くなる。

英国のJones(2017)はイタリアのF1レース用のサーキット(1周2.4㎞)で、空気抵抗と給水によるタイムロスを可能な限り取り除く方式で、リオ五輪金メダリストのキプチョゲ(ベスト記録2時間03分05秒)ほか2名の世界のトップランナーがマラソンの2時間の壁を破る企画に挑戦したが、終盤のペースダウンが響いて2時間の壁にはわずか25秒及ばなかった。しかし、人類が2時間の壁を破る可能性を示唆し、同時にマラソン走行中の空気抵抗がいかに大きいかを浮き彫りにした。

2)空気抵抗によるタイムロス

Léger and Mercier(1984)は室内の無風状態のトレッドミルと、競技場のトラックを用いた一定ランニング中のエネルギー消費量から、空気抵抗を推定した。マラソンで2時間を切るためには2分50秒/km のスピードを維持しなければならない。そのスピードで無風状態の中を走る時の空気抵抗に要するエネルギーは約4.9 ml•kg-1•min-1(全体エネルギー消費量の7.1 %)である。大都市のレースではたとえ無風状態でもビル風があり、給水時の無駄なエネルギーやペースの上げ下げなどのエネルギーのロスがある。さらに、オールウエザーの走路と道路の差は10kmで30秒近い。これらを考慮すると最低10%以上のロスが考えられ、2時間を切るためにはそれを見越したエネルギーの出力が必要になる。

ラドクリフは2003年のロンドン・マラソンで男性選手の主体的支援によって驚異的な記録(2時間15分25秒)を樹立した。この作為的な記録樹立方法には賛否両論があり、IAAFは、ラドクリフの記録は公認のまま、以降は、女子単独レースを世界記録と認めることを決めた。ラドクリフはその騒動の過中の2005年に同じロンドンで開催された女子単独のマラソンで2時間17分42秒の記録を出した。気象条件は必ずしも同じではないが、両者の記録の差の2分17秒は支援者による風の抵抗を極力少なくしたことによるものと考えられる。2時間15分で走るには、100mで平均19.2秒(3分12秒/km)のスピードが必要である。風の抵抗をいかに防ぐかが今後の課題となる。

蛇足で恐縮であるが、現在主に使われているランニング時の空気抵抗に要するエネルギー量は1970年にPughによる推定式が基礎となっている。この研究はわずか7名の被検者から得られたものでどの程度の再現性と正確性があるのか不安である。半世紀経た今日の科学技術の粋を集めてゼロから検証すべきである。

3)こころの問題

話を戻して、前記の(1)式の±の精神力(b)を決めるマインドは大脳にある。Noakes博士を代表とするケープタウン大学の研究グループは、レース中のペース調節は大脳(中枢統治理論)で行われることを発表している。ヒトが走ろうとする時、大脳から“走りなさい”と電気信号(インパルス)が遠心性神経を介して脚の筋肉に送られて走り始める。また、走ることを止める時も同じように大脳からの命令に従って中止する。走る時のペースはすべて大脳が調節する。大脳には心肺機能や脚筋等全身からの情報が求心性神経を介して刻々送られてくる。終盤、苦しくなると心と体のバトル(葛藤)が始まる。苦しみに耐え心理的限界をどこまで生理的限界に近づけるかはまさに大脳(マインド)にかかっている。例えば、女子の世界最高記録である男女混合と女子単独の記録を比較すると、10kmでは14秒、ハーフマラソンでは1分13秒も前者が速い。あながち、風の抵抗による差だけではない。心の問題も含まれている。

かつてマラソンは“心臓で走る”とか“脚で走る”と言われた。現在では“マラソンは大脳(頭)で走る”とまで言われている。この短いフレーズはマラソンでは何が大切であるかを如実に物語っている。すなわち、マラソンは“心臓と脚と頭で走る”のである。これらを強化しなければ2時間は切れそうもない。