学会活動

ランニング・カフェ

第48話 過ぎたるは及ばざるがごとし!

山地啓司(初代ランニング学会会長)

人間は、快楽、幸せ、利便性、効率、安心などの欲望を満たそうとする動物である。これまでの人類の歴史はこれらの欲望を満たすためにエネルギー資源、土地(領土)、安心(平和)を求めて民族同士が戦争を繰り返してきた。そのために、相手よりも高性能の武器を生産し、エネルギーを産生し、科学を進歩させテクノロジーを進展させた。テクノロジーの進展は機械、各種の列車や車など乗り物をつくり、掃除や洗濯などの人的労働を軽減し、TVやPCを開発することで情報が速く広く伝わるようになった。それはまた、人々の生活を豊かにした。

すなわち、社会は電化や省力化が進み、かつて人力で行っていた労働や日常生活での身体活動は大きく軽減された。しかし、人々はそれだけでは満足せず、さらに、利便性、安全性、経済性、生産性、省力化等の豊かさを飽くなき追求をしている。

我々が小学生の頃は、近い将来は産業革命が進行し機械やロボットなどが人力に取って代わり、ヒトは日常生活や労働での省力化が一段と進み、身体活動の機会を失い、結局運動不足のために手足は蛸のように細く長くなり、使われる頭だけが肥大化する(使う身体部位は発達し、使わない部位は退化する)と、まことしやかに言われていた。

当時は地球人よりもより高度に発達した火星人が地球にやってくる。火星では科学が発達しており、未来の人類に予想される人体、すなわち、手足が細く長く頭だけが異常に肥大化した姿の火星人をイメージしていた。

人類が誕生した頃の人間は、大型食肉獣などが生息する自然界の中で、日常的にその脅威にさらされながら生活していたに違いない。またその時代の社会は衛生状態も悪く、ケガや病気をしても病院や薬局があるわけでもなく、人体に備わっている感染症に対する抵抗力や回復力のみが病気を防ぐ、あるいは治癒する唯一つの手段であった。そんな時代の人類は、近代化された電気、水道、洗濯機、掃除機、TVなどのIT機器、暖房や冷房の温度調節設備などが完備された家に住む現代人よりもはるかに生命力や回復力が優れていたと思われる。すなわち、人間は科学的進歩に反比例して自ら生きる力(生命力)が弱まってきたと言われている。ヒトの欲望に従って近代化された社会では、昔の人間が生きるために24時間必死になって獲物を探し獲得に費やしてきた時間を、現代人は生活の中に時間的余裕を生み出し、その時間を趣味やスポーツなどの文化的活動や生活に潤いを求め旅や人と人の交流等に使う時間の自由選択権を獲得して、それぞれの人生を謳歌している。

賢人は豊かな環境の生活に浴するだけでなく身体活動を積極的にしなさい、と言う。しかし、やりすぎると健康のために始めた運動が筋肉や骨を傷め病院に行かなければならなくなる。また、スポーツ選手は日ごろから積極的に運動し、全身の筋肉や心臓を鍛えている。しかし、やりすぎるとけがやオーバートレーニングにつながる。心臓を鍛えると心筋が発達する。特に、持久性のスポーツ選手の心臓は内腔の容積が拡張し、心筋壁は正常範囲でわずかに肥厚して、1回の収縮で一度に多くの血液を全身に送り出せるようになっている(スポーツ心臓)。しかし、トレーニングを中止すると、一度大きくなった心臓の内腔は少々縮小し、心筋壁の厚さも薄くなり、内腔の大きさ(容積)と心筋の壁の厚さ(力)とのアンバランスによって、心臓が異常をきたし易くなる。それを回避するためには生涯運動に親しむ生活をすることが望ましい。

ヒトの細胞には分裂性の細胞(骨格筋)と非分裂性の細胞(ニューロンや心筋の細胞)がある。前者の細胞の分裂の回数は生涯平均48回(35~63回)が限界とされている(ヘイフリックの限界)。例えば、胎児の細胞分裂の残り回数が約50回であるのに対して、成人の細胞の分裂は残り約20回(14~29回)である。なぜなら、成人の細胞はすでに発育発達に伴ってすでに分裂を繰り返してきたので分裂の回数が残り少なくなっている(伊藤明夫『細胞がわかる本』)。

このことで思い出すことがある。各スポーツでマスターズ大会が国際的に開催されている。長命国日本の選手は世界のマスターズ陸上競技大会でも優れた成績を挙げている。唯、 気になるのは、かつて五輪や世界陸上等に出場した選手で、一線を退いた後も継続してトレーニングや競技会に出ていた者で60歳を超えてもまだマスターズ大会の上位にランクされている者はほとんどいない(ただし、長期に亘ってトレーニングを中止していた者は除く)。例えば、都道府県マスターズ駅伝大会に50歳代で出場した五輪メダリストの君原健二氏は区間5~6位だった。本人に「十分トレーニングして挑戦すれば区間賞取れそうですか」と尋ねたところ、「そのつもりで頑張ったのですが…。とても取れそうもありません」と言う返事が返ってきた。

そこで、60歳代、70歳代、80歳代で活躍しているマスターズの中・長距離選手に、「いつごろからトレーニングを始めましたか」と尋ねたところ年齢に関係なく「約10年前頃から」と言う返事が返ってきた。特に60歳代の選手は青年のような走り方をする者がいる。これらの事例は、 若い頃激しいトレーニングをしていた者の筋細胞の残された分裂の回数が少なくなっているのに対して、若い頃特別トレーニングをしていなかった者がある年齢に達して、何かのきっかけでマスターズ陸上を開始した場合にはまだ若い筋肉でばねのある走りができると考えられる。