学会活動

ランニング・カフェ

第47話 努力とは!

山地啓司(初代ランニング学会会長)

かつて日本人の若者は「“努力”と“辛抱”は買ってでもしなさい」、と教えられた。お金も物もない時代であったが、日本国民には戦後の復興のために頑張ろうとする強い意志と精神力、そして、エネルギーがあった。その当時は、努力の象徴として校門には二ノ宮尊徳像が建立され、冬季には学内で耐寒マラソン大会が行われ、村や町、市や県単位でも多くのマラソンがあった。今思うに、マラソンは敗戦の屈辱や悲しみを払拭し、みんなが一緒になって貧しさや不自由さに耐えながら最後までやり遂げる根性や勇気を鼓舞するのに都合のいい教育手段であったのだろう。

戦後の日本経済が世界に類を見ないほど急速に復興し、新幹線が走り始め、道路に車があふれ、家庭ではTV、冷蔵庫、掃除機、洗濯機等が揃うようになると、いつの間にか“努力”だとか“辛抱”と言う言葉は“ダサイ”とか“古臭い”という象徴になった。それが目に見えるような形で現れたのは、全国津々浦々の小学校に建立されていた江戸時代後期の農政の先駆者二ノ宮尊徳(金次郎)像が撤去されたことである。像の建立の意義や精神が顧みられず、薪を背負い歩きながら本を読む姿は時代遅れだと表層的に考えたのであろうか。それは“努力”とか“辛抱”を否定し、苦労をしないで手軽に要領よく知識やお金を得ることが“かっこいい”と称賛され始めた転換期でもあった。

翻って、1年遅れの東京2020(オリパラ)では、コロナ・パンデミックの恐怖の中、最高のパフォーマンスを競い合う姿に、テレビの前で多くの人々が称賛の拍手を送り続けた。パラリンピックの創設者である英国のグッドマン博士の「失ったものを数えるのではなく、残されたものを最大限生かせ」の言葉と、それを実践しているパラリンピックの選手を見ることは、それぞれの環境の中で精いっぱい生きようと努力している世界の人々にどんなに励みになったであろう。

努力するとは何か? 幸田露伴は『努力論』の中で、「努力をしているのだということを忘れて努力をすることが真の努力である」と述べている。すなわち、自分が努力していると思っている時はまだ真の努力ではない。努力が生活化するまで昇華して初めて真の努力に達するとみなした。斉藤兆史の『努力論』(2013)では、努力の例を挙げ、宮本武蔵は『五輪の書』で、「千日の稽古を鍛(たん)とし、万日の稽古を錬(れん)として、日々目標達成に向けて一歩ずつ着実に歩んでいかなければならない」といい、また、発明王のトーマス・エジソンは「天才的な能力とは、無限に努力することである」、と述べている。ただ忘れてはならないのは、スポーツの努力には限界があり、精神力が肉体の適応を上回るときには、からだに異常をきたすことがあることを覚えていなければならない。

努力に関するもう1つの例を挙げてみよう。米国のボクサーのモハメド・アリはローマ五輪(1960)のライトへビー級で金メダルを獲得した。アリは、母国に帰れば英雄扱いされるだろうと思ったが、帰国早々入ったレストランで「黒人が来るところでない」と罵倒されて追い出されてしまった。そこで、プロのボクシングの世界チャンピオンになる誓いを立て、五輪で獲得した金メダルを川に投げ捨てた。プロ転向4年後、血のにじむような努力を重ねることによって念願の世界ヘビー級チャンピオンにまで上り詰めた。その喜びもつかの間、ベトナム戦争出兵を命じられた。戦争反対を表明して出兵を拒否したことで有罪判決を受け、すべてのタイトルやライセンスが剥奪された。これにも屈せず3年半のブランクを経て再びリングに上がった彼は、当時40連勝中の無敵の若きチャンピオンのジョージ・フォアマンと雌雄を決することになった。マスコミの下馬評では、脂の載った25歳のチャンピオンと7歳年上のすでに過去の人になったアリとでは、「アリが再びリングに上がることができなくなるのでは…」と懸念された。アリはそんな評判に折れそうになる心を自ら鞭打つように、「俺はチョウのように舞い、ハチのように刺す」「俺のパンチはフォアマンには速すぎる」と、精一杯自分を鼓舞し続けた。

試合はザイールの首都キンシャサで行われ、7回を終わるまでフォアマンの一方的な攻撃に耐え続けたアリは、フォアマンに疲れが見え始めた8回に入るや猛反撃に転じ、瞬く間にチャンピオンをマットに沈めた。人々はこれを“キンシャサの奇跡”と呼んだ。

筆者がアリを再び目にしたのは、1996年アトランタ五輪の開会式にパーキンソン病と戦うアリが聖火ランナーとして登場した時である。サマランチIOC会長がアリに歩み寄り首に金メダルをかけたとき、超満員の大観衆からの拍手はしばらく鳴り止まなかった。その拍手は、アリの不断の努力と不屈の精神への称賛であった。

心理学者フロイトは快楽の原則の1つに、「ヒトは快楽を求め、苦痛を回避しようとする本能がある」と言う。その本能的誘惑に負けず目標に向かって努力する姿は称賛に値する。