学会活動

ランニング・カフェ

第49話 呼吸筋は全身持久性の主たる制限因子である

山地啓司(初代ランニング学会会長)

近代生理学の祖といわれる英国のノーベル賞博士AV Hillは1924年に「全身持久性の制限因子が心臓・血管を中心とする酸素運搬系にある」と述べた。その後、マラソンのような長時間の運動では呼吸筋に疲労が現れることから、呼吸筋が持久性の制限因子の1つであると言う論文が多く発表されたが、その度に否定されてきた。その主な理由は、①Hill の見解と異なる、②最大作業(例えば、1500mの全力走)のオールアウト時の動脈血の酸素飽和度(HbのO2結合の割合)は92%以上が維持されている(Asmussen et al,1958)。(ただし、最近のエリートランナーは80%近くまで追い込むことができる)、③最大作業でのオールアウト時の肺換気量は最大自発的換気量(15秒間に呼出できる最大の空気量)の65~75%すぎない (Shephard,1967)、④マラソン走行時の心臓・血管系の測定項目は最大値の85%を超えているが、肺換気量だけは70%台とまだ十分余裕がある(Fox et al,1972)などであった。

このように、当時の世界の運動生理学をリードする研究者たちは呼吸筋が全身持久性の制限因子であるという考えに否定的であったが、頑なに呼吸筋が制限因子であると信じて執拗にそのエビデンスを追究したのは米国のウィスコンシン大学のデンプシイ(Dempsey)博士を中心とする研究グループであった。1990年に入ると彼らは矢継ぎ早に、呼吸筋が全身持久性の重要な制限因子であることを証明した。その一人Johnson et al(1992)は、作業強度を高めていくと酸素摂取量(VO2)や心拍出量(Q)は直線的に高まるが、やがて増加率が低下し始めしばらくすると完全に定常状態に達してオールアウトに至る。しかし、肺換気量(VE)だけはVO2などに定常状態が現れ始めても逆に指数関数的に高まり続ける。例えば、VO2Qに定常状態が現れ始めた時の呼吸筋で使われるエネルギー代謝量は酸素摂取量(totalVO2)の約4%に過ぎないが、オールアウトに達する頃には10~16%にもなる。博士たちは、VO2に定常状態が現れた後呼吸筋で増え続ける代謝量(酸素)はどこからくるのだろうかと考え、本来活動筋(脚筋)に行くべき血液や酸素の一部が呼吸筋に横取りされるのではないかと推理した。そして、この呼吸筋の作用を “盗血現象”と名づけた。

この推測を実証したのは同僚のHarms et al(1997)である。博士は、高強度の自転車駆動中に人工的に呼吸抵抗を増減すると、例えば、呼吸抵抗を増すと呼吸筋の仕事やVO2が大きくなるが活動筋(脚筋)のVO2は減少する。逆に呼吸抵抗を軽減すると呼吸筋の仕事やVO2が減少し、脚筋への血流量や酸素の供給量が増加することを証明した。

続いて同僚のWetter et al(1999) は、活動筋の血中乳酸濃度(La)が急激に高まり始める乳酸性閾値(LT)までは血液配分にヒエラルキー現象(階級序列)が認められないが、LTを超える頃から徐々に吸気筋(横隔膜)に階級序列が現れ始める。すなわち、吸気筋への血流が下肢への血流に優先するようになると考えた。

さらにそのメカニズムを追究した同僚のSt Croix et al(2000)は、呼吸筋に疲労が現れ始めると交感神経の活性が高まり、それが反射的(代謝性反射)に下肢の骨格筋の交感神経性血管収縮を促し血流が抑制されることを明らかにした。現在ではこの呼吸筋の代謝性反射説が最も有力な説となっている。

現場の指導者の興味は、どんな運動でどの程度の強度と時間が呼吸筋に疲労が現れ、また、呼吸筋の効果的なトレーニングは、どんな運動形態・どの程度の強度・時間であるか、であった。その後の研究の結果現在では、100% VO2maxの強度では約5分、 85% VO2max以上で25~30分、70~75% VO2maxでは2.0~3.0時間以上のスポーツで呼吸筋に疲労が出現する。従って、マラソンを約2時間10分で走るランナー(平均約80% VO2max)では1.0~1.5時間で呼吸筋疲労が現れ、活動筋(脚)への血流が抑制され始めると判断される。もしこれ以上のハイペースで走ろうとするならば、呼吸筋トレーニングは必要と考えられる。

その後、各種のスポーツ、例えば、陸上短・中・長距離、ウルトラマラソン、トライアスロン、自転車競技、漕艇、水泳、クロスカントリースキー、サッカーなどの選手に呼吸筋トレーニングによるパフォーマンスの向上が報告されている。

トレーニング実験では、被験者の競技水準とトレーニングによるパフォーマンスの改善率との間に反比例が存在する。従って、初心者に改善が現れても一流選手に改善が認められるとは限らない。上記のスポーツ種目でナショナルレベルの選手を対象にした報告では自転車競技とトライアスロンの選手に認められている。

筆者らは、箱根駅伝の予選会の成績が15位程度の大学競技選手を対象に、8週間(3回/週、30呼吸×3セット/1回)の吸気筋トレーニング実験を行った結果、VO2maxは不変であったが、ランニングの経済性に有意な改善が、また一定のランニングスピード(vVO2max)での持続時間に31.5%の有意な改善を認めた。呼吸筋トレーニングはエリートランナーにも有効である、と言える。