学会活動

ランニング・カフェ

第51話 スポーツ選手の安全・安心をいかに確保するか?

山地啓司(初代ランニング学会会長)

読売新聞夕刊(2020.7:4付)に大阪大学や国立スポーツ科学センターのチームが歴代五輪選手の健康に関して追跡調査を行うとの記事があった。これまで日本体育協会(現・日本スポーツ協会)が1964年東京五輪出場選手の体力測定や健康調査を4年ごとに行ってきたデータの解析では、暫定値と断りながらも元五輪選手の寿命は一般日本人のそれよりも約15年長い、と報告している。

ギリシャ時代の哲学者ヒポクラテスは「激しい運動は寿命を短縮する」と述べ、そのことが永く信じられていた。これに異を唱えたのは、英国の医師モルガン(1873)である。モルガンは当時英国で最も過酷なスポーツと言われた元大学ボート選手を対象に寿命を調査した。その結果、当時の英国における保険の生命表の寿命に比べて約2年長命であることを明らかにした。それ以降多くの研究者によって運動種目、褒賞(スポーツ成績)、体型などの視点から元スポーツ選手の寿命が調べられたが、若い時の一時的(10〜15年)な厳しいトレーニングが寿命に与える影響よりも、その後どんな環境の中で生活していたかが寿命を大きく左右する、とのコンセンサスが得られている。

五輪選手は体力・技術・精神力に最も卓越したエリート集団である。もし引退後の生活状態が同じであれば他の選手や一般の市民よりも長寿であることが十分考えられる。競技を始めた時点で五輪に出場するような選手は他の選手や市民よりも体力的に優れていることが考えられることから、寿命を調査することにどんな意義があるのか気になるところである。

現代の五輪や国際大会では、各国は自国の選手が開催地で何の憂いもなく最高のコンディションで競技できるように医・科学サポート拠点を設置している。米国は世界に先駆け2000年のシドニー五輪で最初のサポート拠点を設置した。次の2004年アテネ五輪では豪州が加わるなど、その後五輪ごとに設置する国が多くなった。日本は2012年のロンドン五輪で初めて村外拠点(マルチサポートハウス)を設置した。拠点では選手のコンディショニング、精神的・肉体的ストレス解消、メディカルケア、日本食を含めた栄養等々、選手の多様な要求に応えられるように準備がなされている。ロンドン五輪ではPR不足もあり、4億円の予算に対して利用者は約40名であった。1名当たり1000万円の効果があったかが揶揄されたが、お金だけの問題ではない。国を代表する選手が異国の地で最高のコンディションで競技するためには欠かせない拠点である。このような拠点をまず米国と豪州が創設したことと、両国がとりわけモニタリングトレーニングに力を注いでいることと無縁ではないような気がする。

スポーツでトレーニングするということは身体に刺激を与えること、換言すれば、疲労させることである。トレーニングは日々実践することから速やかに疲労回復を行い、効果的な適応を促さなければならない。すなわち、疲労→回復→適応(刺激)のトライアングルが効率的に連動していなければならない(図1)。しかし、わが国のスポーツチームではトレーニングを専門とするコーチ(Coacher)は数多くいるが、速やかな疲労回復を専門とするトレーナー(Trainer) が存在するチームは実に少ない。

しかも、日本のアマチュアのスポーツチームでモニタリングトレーニングを指導できる理論(知識)と実践(技術)力を身に付けた専門家はさらに少ない。スポーツトレーナーは各種目の若いスポーツ選手に必要な基礎体力・技術を指導し、けがに強い選手を養成しなければならない。モニタリングの指導者は日々のトレーニング内容を可能な限り客観的データとして測定・記録し、さらに定期的に心身の状態をチェックする。そして、シーズンの変わり目には健康診断や体力測定等を実施し、次のシーズンに備えてトレーニングの方向性と重点項目を明確にし、それを各指導者と選手とが共有しなければならない。欧米ではすでに約20年前から実施されている。

欧米諸国では、選手に対する健康管理やけがを未然に防ごうとする姿勢や情熱から、トレーニングの手法や強度などに配慮するだけでなく、早く疲労回復をさせることにも努めている。わが国でも欧米諸国に後れを取っているが各競技団体を中心に選手の健康や安全に配慮する機運が高まり、具体的なけが予防のための具体的対策が講じられてきている。勿論、スポーツにおけるけがは多分に複合的要因からくることから、前述のスポーツ指導者(コーチ)、トレーナーに加えて、専門の医師を含めた3者が相互に情報交換を密にして、数に限りある人材を大切に育てたいものである。

図1