学会活動

ランニング・カフェ

第40話 見え隠れするNike社のビジネス戦略

山地啓司(初代ランニング学会会長)

スポーツテクノロジーの発達はスポーツのパフォーマンスの向上に大きく貢献してきた。

世界の陸上競技場のトラックが土から人工のオールウェザーに変革される時、シューズメーカーにとってスパイクの開発は千載一遇のチャンスであったはずであるが、不思議に新しいスパイクが開発された話を聞かない。そこで調べてみると、1968年米国の大衆スポーツ誌『Sports Illustrated』にPuma社のスパイク開発の記事が掲載されていた。それによると、1968年メキシコシティー五輪(五輪で初めてオールウェザー使用)の数か月前に米国のPuma社が短距離用のスパイク“ブラッシュシューズ(Brush Shoe)”を開発・発売した。当時のスパイクはそれまでの土用と変わらず針の本数が4あるいは6本あった。Puma社の新スパイクはその針の代わりに68本のピンを採用したものであった。五輪2か月前に新スパイクを履いたT.スミス(200m)とL.エバンス(400m)が立て続けに世界新記録を樹立した。IAAFは五輪を目前に控え混乱を避けるため、“公平性”の理由からスパイクの使用を禁じ、200mと400mの世界新記録を無効とした。空気抵抗が少ないメキシコシティー五輪ではT.スミスが200m(19.8秒)で、またL.エバンスが400m(43.8秒)の世界新記録で優勝した。大会後エバンスはPuma社の新スパイクを履いて走ってみたかったと胸の内を明かしている。

IAAFのあまりにも早い結論で、Puma社はまだ十分新スパイクのアドバンテージをテストしていなかった。現在残っている唯一の記録は、オハイオ大学のDW. Wood(1970)が6名の高・大学の短距離選手を対象に行った新スパイクと従来のスパイクの45mのタイムトライアルの比較では、6名中5名が新スパイクの記録が優位であったと報告している。

Puma社の情報戦略のまずさを他山の石にしたのか、最近Nike社が開発した長距離用のシューズのビジネス戦略は実に見事であった。Nike社の新シューズ(CFP)は2016年10月のベルリンマラソンで初めて登場した。意図的かそれとも偶然か定かではないが、結果的に新シューズの画期的な売り上げを可能にしたのは、Nike社が関係した次の3つの戦略があったからであろう。

第1に、新シューズの良さをアピールする最もインパクトの強い方法は人類の夢でもあるマラソン2時間切りの可能性を証明することであった。Nike社は2016年のリオ五輪のマラソンで金メダルを獲得しマラソン界で最も著名になったケニアのキプチョゲ(他2名)を擁して、2017年5月にイタリアMonzaの1周2.4kmのサーキットで、マラソン2時間切りのイベントを開催した。キプチョゲは、約30名のペースメーカーと風防止役の助けを借りて、惜しくも目標の2時間は切れなかったが人類が近い将来2時間の壁を破る可能性を示す2:00:25で走った。このことは世界のランナーに新シューズの高い性能をアピールするのに十分であった。さらに、シューズの優位性を不動にしたのは2018年9月のベルリンマラソンでキプチョゲが新シューズを履いて2:01:39の世界新記録を樹立したことである。

第2に、コロラド大学のW. Hoogkamer et al.(2018)は、早々と新シューズ(Vaporfly)の優位性を構造と機能の両面から科学的に究明し、既存の他社のシューズに比べ約4%消費エネルギー量が少ないこと、そして、それが一定のスピードで走る際ストライド頻度が変わらないがストライド長が無理なく伸びることによることを証明した。(これらの点についてはすでにエッセーで詳述したので省略する)

第3に、Monzaでのイベントは一応成功をおさめたものの、主催者側からみると“2時間を切る”のが興行目的であったことから、Monzaの挑戦を徹底的に再検証し、少なくともMonzaよりも記録が出やすいコースの選択が必要であることを確認した。そこで白羽の矢を立てたのがオーストリアのViennaであった。MonzaとViennaの両コースを検証し記録への影響を明らかにしたのはミネソタ大学のSnyder et al. (2020)とスペインのザロガザ大学のMuniz-Pardos et al. (2021)である。その報告によると、キプチョゲは、2019年10月にViennaでの2時間切りのイベントで、世界のマラソンのトップ選手41名のペースメーカーと風防止の助けを借りて、人類初の2時間の壁を切る1:59:40で走り切り、名実ともにNike社の新シューズ(Alphafly)の優位性を不動なものにした。Monzaコースの起伏の変化によるタイムロスは46.2秒、カーブによるタイムロスは1.5秒に対して、Viennaコースではわずか1.2秒と0.9秒のタイムロスとなり、コース特性が顕著に現れた。その他、気象条件はMonzaの平均12℃と若干高いのに対して、Viennaは平均9℃と理想に近い気温であった。

キプチョゲが2時間切りに使ったシューズの靴底の厚さはいずれも39.5㎜と高い。このことは同時に安定性に欠け、けがのリスクが高まる。一説によると、2018年のベルリンマラソンに出場を予定していたエチオピアのべケレ(2:01:41)がけがのため出場できなかったのは、Nike社のシューズが一因したと伝えられている。しかし、厚底とけがの関連性についてはまだ報告されていない。

この数年Nike社のシューズがマラソン界を席巻している。Nike社は第1で新シューズの記録への優位性を実証し、第2でその優位性を科学的に証明し、第3ではその優位性が他の要因でなく新シューズの構造と性能にあることをアピールした。そのビジネス戦略は実に巧みである。