ランニング・カフェ
第41話その1 記録の“進化説”と“限界説”を考える(1)
山地啓司(初代ランニング学会会長)
20世紀末まで多くの人たちは、陸上競技の記録は永遠に伸び続けるという“進化説”を信じてきた。しかし、21世紀に入ると記録の逓減傾向が強まり近い将来記録の伸びが限界に達するのではないかという“限界説”の声が高まってきている。両者の見解の相違の“なぜ”を考えてみよう。
第1の論点:推定式による記録変動の評価の相違
将来の記録の変動を推定する際に使われる統計式には、直線式(linear equations)、指数関数式(exponential equations)やロジスティク式(logistic equation)などがある。主に、短期(<5~10年)の変動では直線式が、長期(>10年)では放物線や双曲線を描く指数関数式を使い、最近では記録の逓減をより明確に描くためにロジステック式を用いて平坦なS字カーブを描くようになってきた。
① 直線式:米国の科学雑誌“ネイチャー”は、カリフォルニア大学のWhipp and Ward(1992)の「男・女の200m~マラソンまでのレース記録の向上率がこのまま維持されると仮定すると、2050年までには男・女の記録が完全に逆転する」という論文を掲載した。ニュース・ワールド誌はこの珍説を信じるか否かのアンケート調査を行い、対象者の約2/3が肯定的に受取っている、と報告した。また同誌は、2004年にTatem et alの「男・女の100mの記録の向上率から推定して、女性の記録は2156年に8.079秒に到達し男性の記録を上回るようになる」、という夢のような論文を再び掲載した。世界のトップクラスの科学雑誌に発表されたこの見解に対して、世界中の生理学やバイオメカニクス学等の研究者たちは男性の形態、筋力やエネルギーの出力の大きさが女性よりもはるかに大きいことから「ありえない」と、強く否定した(Holden,2004)。この2つの論文は“長期”にわたる各種目の男・女の世界記録の変動を直線式から推定したものである。しかし、その後女子の記録の伸び率が鈍化したことで、近年の男・女の記録の差(10~12%)はその当時と比べ余り変動がない。今後も男・女のこの比率は変わらないと思われる。
② 指数関数式:長期の記録変動は指数関数式を用いて放物線や双曲線で描くと実態を的確に把握できる。しかし、英国のホルベルハンプトン大学のNevill and Whyte(2005)は長期間の競技記録から逓減傾向の出現を詳しく調べるためには平坦なS字曲線を描くロジスティク式が望ましいとした。
③ ロジスティク式:陸上競技が始まってから今日までの長期(x軸)にわたって、毎年の1位の記録または世界記録の変動を平均走速度(y軸)とし、経時的に図示すると図1のようになる。そのS字曲線式から推定される近年の平均走速度がx軸と平行になった点が絶対的平均最高走速度(m/s)となる(図2)。もし、S字曲線がx軸と平行点に達していなければまだ限界に達していないので、さらに最高平均走速度に達するまでこれからも引き続いて伸びることになる(表1)。
スタンフォード大学のDenny(2008)は、1920年から2000年までの男子マラソンの走速度は約23%速くなり、女子マラソンでは約60%速くなったとしている。図1と2は男・女の200m、400m、800m、1500mをS字カーブで描いたものである。女性では1980年以降ほとんど伸びていないため、1980年頃にすでに走速度が限界に達し、男性ではまだ伸び代が残っていることを示唆している。ただし、身体能力の向上による内在的要素と、スポーツ科学やテクノロジーの発展によって高度で効果的なトレーニング理論や機器及び道具(シューズやウェアー)などが開発され、毎年の1位の走速度が向上することによって絶対的平均最高速度が伸びる可能性は残されている。
種目ごとに毎年1位の記録(走速度)の向上が認められなくなった時点が、人類の身体・精神的(内在的)限界ということになるが、それは人類が達する記録の極限とは断定できない。なぜなら、今後潜在能力に優れた超人的な選手が出現するかもしれない。また、科学技術の進化に伴ってトレーニング理論や競技の環境あるいは人為的なルール改正等によってさらに記録はポジティブあるいはネガティブに変動する可能性が秘められているからである。
性別 | レース距離 | 現世界記録 | 推定絶対的 平均世界記録 |
現世界記録の 平均走速度 |
推定絶対的 平均世界記録 の速度 |
平均走速度の 増加率 |
---|---|---|---|---|---|---|
(m or km) | (時間:分:秒) | (時間:分:秒) | (m/s) | (m/s) | (%) | |
男子 | 100 | 9.69 | 9.48 | 10.32 | 10.55 | 2.22 |
200 | 19.3 | 18.63 | 10.35 | 19.73 | 3.68 | |
400 | 43.18 | 42.73 | 9.26 | 9.36 | 1.06 | |
800 | 1.41.11 | 1.38.04 | 7.91 | 8.17 | 3.22 | |
1500 | 3.26.00 | 3.21.42 | 7.28 | 7.45 | 2.29 | |
3000 | 7.20.67 | 7.06.42 | 6.81 | 7.04 | 3.34 | |
5000 | 12.37.35 | 12.00.8 | 6.6 | 6.94 | 5.09 | |
10000 | 26.17.53 | 25.03.4 | 6.34 | 6.65 | 4.93 | |
42.195 | 2.03.59 | 2.00.47 | 5.67 | 5.83 | 2.72 | |
女子 | 100 | 10.61 | 10.39 | 9.43 | 9.65 | 2.38 |
200 | 21.34 | 20.99 | 9.37 | 9.53 | 1.73 | |
400 | 47.6 | 46.75 | 8.4 | 8.54 | 1.65 | |
800 | 1.53.28 | 1.50.83 | 7.06 | 7.2 | 2.01 | |
1500 | 3.50.46 | 3.47.92 | 6.51 | 6.58 | 1.12 | |
3000 | 8.06.11 | 6.17 | ||||
5000 | 14.16.63 | 5.84 | ||||
10000 | 29.31.78 | 5.64 | ||||
42.195 | 2.15.25 | 2.14.97 | 5.19 | 5.21 | 0.36 |
ただし、女子の100mの記録は10.49秒であるが、風速が2m/s以上あったことから、本稿では10.61秒を採用した。