学会活動

ランニング・カフェ

第41話その2 記録の“進化説”と“限界説”を考える(2)

山地啓司(初代ランニング学会会長)

第2の論点:超能力を持った選手の出現

フィンランドのノルディックスキー選手のE.マンティランタはインスブルック冬季五輪やワールドカップなどの国際大会で数多くのメダルを獲得するなど華々しい戦歴の持ち主であった。余りにも超人的な身体能力を持っていたことから、1968年のグルノーブル冬季五輪ではドーピングの疑惑がかけられた。大会医療チームによる徹底した医科学的検査がおこなわれ、血液中のヘモグロビン(Hb)やエリスロポエチン(造血因子)が他の選手に比べ約1.5倍濃度が高く、それがドーピングによるものではなく彼自身の特異な生理機能によるものであることが判明した(P.Nouvel, 2011)。

世界のトップ選手の中には、このように天から授かった身体の超人的特殊能力に加えて誕生後の厳しいトレーニングが加わることで、夢のような大記録を樹立するものがいるかもしれない。これまでも、他の追随を許さないような超能力を備えたスーパースター選手が一気に記録を押し上げてきた。例えば、走幅跳で8.90mを跳んだB.ビーモン、100mと200mに9.58秒と19.19秒で走ったU.ボルト、先の東京2020の400mHを45.94秒で走ったK.ワルホルムなどがいる。これらの選手はただ身体能力の素晴らしさだけでなく、社会や自然環境、さらに当日の気象条件やライバルなど“天地人”に恵まれた選手でもある。

日本の陸上界では30年近く他の追随を許さない400mの高野進(44.78秒)、三段跳の山下訓史(17.45m)、やり投の溝口和洋(87.6m)などがいる。女子では21年間日本記録保持者の三段跳の花岡麻帆(14.04m)が最長である。

第3の論点:マイノリティ(性的少数者)の存在

先の東京五輪2020の全出場者の中1.6%(約180人)が性的マイノリティの問題を抱えている。この比率は恐らく、一般国民の性的マイノリティの発生率に比べると高い比率であろう。女子の試合やレースでは男性に見劣りしないスピードとパワーに優れた女性選手が散見され、その中に、メダルを獲得した選手もいる。

スポーツ界での性的マイノリティ問題は古くて新しい。最初にこの問題の存在が客観的に明らかにされたのは、1930年代に女性スプリンターとして活躍した元選手が買い物に出かけたスーパーマーケットで不運にも暴漢に遭遇して射殺され、事件後の死体解剖によって彼女が卵巣と精巣の両方を有することが判明したことからである。そして、彼女がスプリンターとして成功したのは精巣からのアナボリックステロイドの分泌によるものであったとみなされた(Denny, 2008)。

これまでの男・女の性別判定は医学的手法を用いて種々試みられ、試行錯誤してきたが、医科学の進歩とともにそうした検査方法に科学的、法的、倫理的根拠がないと考えられるようになった。そして、競技者の人権を尊重する立場から、性別確認検査を廃止する方向へと変わってきた。

いずれにしろ、これらの問題が女性の記録の向上を促進させてきた1つの要因である。

第4の論点:人口増加に伴う記録向上

特殊超能力者の出現や性的マイノリティの問題の発現は人口増加に比例する。2020年の世界の人口は約77億人。それが2050年には約97億人に増加することが知られている。当然のように超能力者や性的マイノリティ者が多くなり記録向上の確率が高まってくるだろう。

第5の論点:競走動物の走速度(m/s)向上の逓減

米国の競走馬のサラブレッド(1927~)の平均走速度(レース距離は2.0~2.4㎞)の伸びは、初期には順調であったが1973年をピークにその後ほとんど変化が認められていない。また、競走犬のグレーハウンド(1927~)の場合も競走馬と全く同じで1970年代をピークに平均走速度(レース距離は460~480m)は伸びていない(Denny, 2008)。著者は競走馬・犬の走速度の向上は主にトレーニング方法や栄養と、品種改良の改善に伴うものとみなしている。また1970年代からの走速度の逓減の原因は種馬の遺伝子供給源(gene pool)が制限されていることによる多様性の欠如が挙げられている。この他、ジョッキーが馬の特性を生かして勝ちに徹したペース戦略を考え、冒険よりも安全性を重視したトレーニングやレース展開をすることも1つの要因と思われる。従って、競走馬・犬は記録の伸びから見る限りすでに限界に達している。

第6の論点:日本人二世の活躍

明治維新後、日本人の体格・体力を高める解決策が議論されているが、吉田章信(1925)は身体や体力に勝る欧米人と結婚することで日本人2世の誕生を促進する案を提唱している。さすがに当時は一笑に付されたが、近年スポーツだけでなく多様な分野で2世の活躍が目覚ましい。

この他、ドーピングの使用による記録の向上も無視できない。

陸上競技の記録は超能力者の誕生・発掘・トレーニングなどによる人の内在的能力の開発、テクノロジーの進化・応用によるトレーニング機器・道具等の外在的道具の開発、それに伴うルール改正などの多くの要因によって変動する。人の内在的能力からみた記録の改善は確実に極限に近づいていると思われる。