学会活動

ランニング・カフェ

第42話 スポーツと五感

山地啓司(初代ランニング学会会長)

科学技術の進歩に伴って現代の生活の中で五感を活用することが減少し、現代人が持つ鋭敏な感性が徐々に弱体化していることが懸念される。一般にこの現象は“五感の危機”とも呼ばれている。

例えば、ヒトは、多種多様な匂いにさらされながら、あるいは、それを判別しながら生活している。ところが最近、職場や家庭では体臭(ミドル脂臭)、加齢臭、生活臭等のさまざまな匂いが消臭剤等で消され芳香剤で人工の匂いに置き換えられている。またかつてヒトは、食べられるか否かを視覚や嗅覚で見分け、それで不十分であれば味わってみて確かめていたが、今では賞味期限を観て判別する主婦が多い。

また、傘を持って出かけるか否かを、空を見上げ雲の流れや○○の山に雲がかかると雨が降るなどの言い伝えなどから判断した。しかし近年では、スマートフォンなどの情報機器の普及によって、地元の気象情報が刻々と伝えられている。また、さらに世の中が進歩し自動運転車が実用化されると、これまでドライバーが歩行者や自転車、あるいは、他の自動車等を目で確認しながら安全運転に努めていたのが、自動車に備えられたAIがすべての情報をキャッチ・判断して安全に目的地まで運んでくれることになる。乗車している者は大脳や視覚・聴覚等の感覚をほとんど使わなくなる。それは五感を使わないだけでなく、ヒトがドライブする楽しみや達成感・充実感を得る機会を奪うことになる。

このように科学やテクノロジーの進歩・発達に伴って五感で判断する機会が少なくなるのは確かである。その一方で、スポーツや芸術の世界で長年究極の美や技術を追求し感性を研ぎ澄ましてきた者の中に、名人・達人・超人の域に達している者も少なくない。

田中聡著の『匠の技』(2006)では、各分野の『超人』と呼ばれる鋭敏な感覚や卓越した技能を持つ11名のプロフェショナルを紹介している。例えば、暗闇の浜名湖で古くからおこなわれてきた“たきや漁法”(小舟の舳先に水中灯をともし、小舟を操りながら照らし出された魚をモリで突く漁法)の名人(藤田義夫氏)は、漁をする時には魚を生かしておくように頭部を刺す高度な技術を身に付けている。この他、水道水に含まれる汚染物質のチクロを百億分の1まで利きわける利き水の専門家、ピアノの音を超人的に聞き分けるピアノの調律師、大型トレーラーをcm単位で操るドライバー、ヒトの往来の雑踏や喧噪の音の広がり、街に漂う多様な臭い、空気の圧力感、風の流れなどの情報を右手の甲で読みながら闊歩する視力障害者など、究極の感性の達人がいる。

著者の田中は、これらの人並外れた感性は、金銭的な冒険をし、時には生活の破綻や身の危険を覚悟しながら、常にギリギリの選択を強いられる中でしか育たない、と言い切る。

モンゴルのゲルに住む遊牧民の1人は、「羊の群れの数は一瞥しただけで判る。なぜなら何百匹もいる羊の顔と名前を憶えている」と胸を張る。筆者には羊の顔がすべて同じに見える。モンゴル人の優れた記憶力には定評があるが、それだけでなく何か識別できるコツのようなものがあるのかもしれない。

スポーツの世界では、例えば、物を投げる投てき選手や野球選手は投げる物やボールを持ち歩き、手の中で感触(摩擦や肌触りなど)、形状、重みなどを確かめるように転がしている。ラケット種目のテニスやバトミントンの選手は8角形状のラケットグリップの感触を手で確かめることで、ラケットの面の方向性を記憶する。これらの行為は身物一体とし、投げる物やラケットを手の一部のように操ることを可能にする。サッカーやラグビー選手も走りながら、刻々と変わる相手の布陣や味方の選手の動き、走るスピードやパスの方向性やタイミングを計りながら、チャンスとみるやミリ単位の正確性でパスやシュートを放つ。これら適切な動きができる選手は名手である。

サッカーのJリーグの初代会長だった故長沼健氏は90分の試合中に個人がボールを保持できる時間はわずか2分だという。この2分を生かすために88分間走りながらチャンスを待つ。めぐって来た2分間に最高のパフォーマンスが発揮できる選手が超一流になる資格がある、と言う。

JOC新会長の山下泰裕氏が選手の頃、日本体育協会のスポーツ科学研究所(当時)で柔道の強化選手の体力測定を実施した折、マスコミの1人が山下氏に近づき「他の選手に比べてあなたの筋力がそれほど高くないのになぜあなたはそんなに強いのですか」と質問した。山下氏は「私は相手の襟を手でつかんだ時相手が何を考え、次にどんな技をかけようとしているのかが読めるからです」、と言い切った。

これらのスポーツ選手にみられる超一流の感性は、試行錯誤を何度も何度も繰り返すことによって本能として身体に刷り込まれている。ヒトの高度な感性の質はこれまでにどれだけ五感を使ったかによって決まるのであろう。