ランニング・カフェ
第44話 世界のマラソン界の今日的話題三話
山地啓司(初代ランニング学会会長)
第1話
2019年10月ウィーンで英国石油化学会社等のスポンサーによる“マラソン2時間切り”のイベントが開催され、世界記録保持者のキプチョゲ(ケニア)が1:59:40の非公認世界最高記録で走り切り、念願の2時間切りをはたした。この記録は、2年前にイタリア(モンツァ)で行われた “マラソン2時間切り”イベントで果たせなかった2時間切りを45秒更新するものであった。今回は五輪メダリストら世界から集まった41名(日本から村山紘太:旭化成が参加)の精鋭が交替しながら、常に7名がペースメーカーと風よけなどの協力をして達成したものである。この成果は、2時間を切るためにはドラフティング(風よけ)がいかに大切であるかということ、換言すれば、人類が2時間を切るためには、第1に、空気(風)抵抗によるエネルギーロスをいかに減らすか、第2に、風によるロスを上回るスピードとスタミナをいかに高めるかが今後の課題であること、を示唆するものであった。
1年遅れの東京2020では、キプチョゲは30㎞以降を独走で2:08:38の余裕の五輪2連覇を成し遂げた。
第2話
2019年のシカゴマラソンではコスゲイ(ケニア)がラドクリフの驚異的な記録をさらに1分21秒上回る、2時間14分04秒の世界新記録を打ち立てた。
バスケットボール(NBA)ではシュートすればことごとくゴールインするような絶好調の状態を“ホットハンド”と呼ぶ。有名な例には、1つに1992年アトランタ・ホークスのD.ウィキンスが連続23回のフィールドゴールを決めたこと、もう1つは、2006年にC.ブライアントがロサンゼルス対トロントの試合でNBA史上最高の1試合81ポイントを記録したことが挙げられる。
コスゲイがマラソンの自己ベスト記録を4分16秒上回る大記録を樹立したのは、恐らく普段は30㎞を過ぎる頃になると疲労でスピードの維持が困難になってきたのが、この日は逆にからだの疲労物質が霧散してからだが軽く脚が自然に動く絶好調の状態、すなわち、バスケットの“ホットハンド”ならぬ “ホットレッグ”を体験したのではないかと思われる。これまでも日本記録を樹立した児玉泰介、犬伏孝行、藤田敦史は3~4分余りの自己新であった。これも“ホットハンド”ならぬ“ホットレッグ”を彼らは経験したのであろう。
一般ランナーやジョガーも年に1~2度このような20~30分走っているうちに非常に気持ちが良く陶酔状態(多幸)を経験することがある。この現象に似た現象を英語でランナーズ・ユーフォリー(runner’s euphoria)と呼び、久保田競は『ランニングと脳』の中でランナーズハイと呼んだ。筆者が言う“ホットレッグ”は、よりハイスピードで長時間走り、普段なら疲労の蓄積がピークになる頃に急に頭・内臓・脚等の全身の機能的働きが最好調に高まり、このままペースを上げてもどこまでも走れそうな気分が20~30分間続くことから、ランナーズハイとは若干異なる現象と考えている。
第3話
2019年の男・女のマラソン世界歴代50傑の国別選手数は、男子ではエチオピア人28名、ケニア人21名、1名がバーレイン(ケニア出身)と、100%の者が高所民族である。女子ではエチオピア人23名、ケニア人17名が、その他の国々が10名(日本人は高橋、渋井、野口の3名)と高所民族が80%を占めている。限られた地域の民族が50傑の中80~100%も占めるのは五輪種目の中でマラソンだけである。彼らは約600万年前から先祖代々2,000~2,500mの高所に住み続け、空気中の酸素が、シーレベル換算で16.4~15.7%相当と、シーレベル(20.9%)に比べ酸素の少ない環境下で生活や活動をしてきた。長年の低酸素下での生活で酸素を効率よく使えるからだになっている。車に例えるとハイブリッド車のような燃費の良さである。さらに高所民族は狩猟民族として主に小動物や草食動物が疲れと熱中症で弱まるまで、大型の肉食獣を避けながら20㎞でも30㎞で追い続ける体力と精神力を鍛えている。
東アフリカ人が変動する自然や社会環境の中で生き延びるためには、知恵と体力だけでなく、環境や社会の変動に適応しなければならない。1980年に入ってマラソン界に賞金レースが普及し、高所民族は名誉のためだけでなく、生活のために世界のマラソンレースに積極的に挑戦することで、世界のスポーツ界で不動の地位を築いたと言える。
マラソンの人材的宝庫は東アフリカにある。政治・経済・武力などの政情が安定でさえあれば、世界の長距離・マラソン界での彼らの活躍や地位はゆるぎないものとなるであろう。